夜勤警備員の男が、巡回中にたびたび通る路地で気づいた「温度のズレ」。それは最初、ただの体感の錯覚だと思っていた。
これを書いているのは、俺が警備員として働いていたとある工業地帯の話だ。
もう辞めてから三年以上経つ。辞めた理由はいくつかあるが、そのうちのひとつが、これから書くことに関係している。
当時、俺は小さな警備会社に所属していて、主に県境に近い工業地帯の施設や倉庫群の夜間巡回を担当していた。夜の十時から朝の六時までのシフト。週に四日か五日、ひたすら指定されたルートを歩いて回る、地味な仕事だ。
巡回ルートの中に、一本だけ変わった路地があった。
工場と工場のあいだを縫うようにして伸びる、幅二メートルほどの細い通路で、地図には載っているのだが、誰かが積極的に使っているところを見たことがなかった。片側はコンクリートの古い外壁、もう片側は金属のフェンス。街灯はあるにはあるが、一基だけで、奥の方はいつも半分暗かった。長さにして五十メートルくらいだろうか。通り抜けると、少し広い搬入用の道に出る。ルート上の必須経路ではなかったが、巡回チェックポイントのひとつがその出口の近くにあったから、俺は毎晩必ずそこを通っていた。
最初に気づいたのは、梅雨が明けてすぐの夏の夜だった。
夜中の一時か二時ごろだったと思う。じっとりと蒸し暑い夜で、制服のシャツが背中に張り付くような感じがしていた。それでもルートだから歩く。路地に差し掛かったとき、俺はふと、身体の表面がすっと冷えたような感覚を覚えた。
夏だから、冷気があれば逆にありがたい。最初は工場の空調か何かから冷えた空気が漏れているのだと思って、特に気にしなかった。
問題は、その感覚が少しずつ、性質を変えていったことだ。
一週間後にまた同じ路地を通ると、今度は肌が冷えるというより、内側から体温を抜かれるような感覚があった。冷房の風と違って、方向がない。どこかから冷気が来ているというより、自分の体から何かが出ていくような、そういう冷たさだ。うまく説明できないけれど、風呂上がりに急に悪寒が走るときの感じに少し似ていた。
気のせいだと思った。
夏の夜中に、暑さで体が誤作動を起こしているのだろうと。
でも、その翌週あたりから、俺は巡回中にメモを取るようにした。特別な理由があったわけじゃない。なんとなく、記録しておきたいという気持ちになっただけだ。安物のノートに、日付と時刻と、その場所で感じたことを簡単に書き留めた。
七月某日、1:12。路地を通過。入口から中盤にかけて寒気。体感で十度くらい低い?
七月某日、1:08。入口入った瞬間から冷たい。今日は外もさほど暑くないのに。
七月某日、2:34。路地の奥の方、何か白っぽいものが見えた気がした。近づいたら何もなかった。
白っぽいもの、と書いたのは一度きりだが、そのときのことは今でも覚えている。街灯のわずかな光の中で、路地の奥、フェンス沿いに、何か人の輪郭に似た白い霞のようなものが立っているように見えた。目を凝らしたら消えた。目の錯覚だと思って近づいたが、何もない。壁にも、フェンスにも、何も引っかかっていなかった。
そのころから、俺は路地を通るのを少し躊躇うようになっていた。でも仕事だから通る。そのたびに体が冷える。
八月に入ると、感覚の範囲が広がってきた。
最初は路地の中ほどだけだったのが、入口に踏み込んだ瞬間から、あの「体温を抜かれる感じ」が始まるようになった。しかも、路地を出てもすぐには戻らない。搬入路のチェックポイントで記録を取りながら、じっと自分の手の甲を見ていると、寒気が引くまでに五分か十分かかるようになっていた。
それだけならまだ、俺の体の問題として処理できた。
おかしいと確信したのは、平日のある昼間のことだった。
夜勤明けの翌日、珍しく用事が重なって、昼ごろにあの工業地帯のそばを通ることがあった。別に目的があって来たわけじゃなく、近くの役所に書類を取りに来た帰り道に、ふと同じルートを歩いてみようという気になった。昼の話だ。真夏の平日の真昼間。空は青く晴れていて、アスファルトからは陽炎が立ち、日なたに一秒も立っていたくないような暑さだった。
例の路地に入った。
冷たかった。
夜よりも、ずっと。
これはおかしい。夜中の気温と真昼の気温では、外気温だけで十度以上違う。それなのに、昼の方が体が冷える。足の先から腰まで、すっと何かに触れられたような感覚が走って、俺は路地の中ほどで立ち止まった。
周囲を確認した。工場の壁、金属のフェンス、遠くでトラックが通り過ぎる音、空調の唸り。人はいない。昼だから当然、夜より視界は開けている。見えないものが潜む余地は、夜よりも少ないはずだ。なのに、体が言うことを聞かなかった。
引き返そうとしたとき、路地の奥に、何かが落ちているのが見えた。
近づくと、小さなビニール袋だった。中に何かが入っている。拾おうかどうか迷って、少し屈んで中を見た。人の手形のような形に折り畳まれた紙が入っていた。古い和紙みたいな質感の。
拾わなかった。触れなかった。
ただ、そのとき俺は、そのビニール袋が今日初めてそこに置かれたものではないという気がした。根拠はない。ただそう感じた。もしかしたら以前から夜道に落ちていたのかもしれないし、誰かが通りすがりに捨てたものかもしれない。でも俺は夜に何度もあの路地を通っていて、落とし物に気づいたことは一度もなかった。
その日の夜勤は別の現場だったから、その路地には行かなかった。
次に行ったのは、三日後の夜だった。
ビニール袋は、なかった。
その代わり、というのも変な話だが、路地の壁にうっすらと、手のひらの跡のようなものがいくつかついていた。子供の手ほどの大きさで、縦に細長く、コンクリートの表面に、何かぬれたもので押したような痕が、三つ、四つ、並んでいた。
俺はその夜、速足で路地を抜けた。チェックポイントの記録票に「異常なし」と書きながら、手が少し震えているのに気づいた。
同僚に話したのはその数日後だ。一緒に夜勤を担当することがある、年上の先輩。俺より十五年以上キャリアが長い人で、いろんな現場を見てきていた。
あの路地のことを話すと、先輩はしばらく黙ってから、「昔、そこで何かあったかどうか、会社の記録を見せてもらったことがある」と言った。
何があったんですかと聞いたら、「見せてもらったが、何も書いていなかった」と返ってきた。
何も書いていなかった、とはどういう意味か。
「古い巡回記録に、あそこを通ったという記録だけがあった。でも担当者の名前が途中から空欄になっていた。名前がない巡回記録が何枚も続いて、そこで記録が終わっていた」
俺は何も言えなかった。
先輩はそれ以上話したがらなかった。ただ、「あの路地だけは、できれば一人で通らない方がいい」と言った。できれば、という部分が今でも引っかかっている。できれば、ということは、できない場合もある、という意味だ。
俺がその会社を辞めたのはそれから二か月後だった。
辞めた直接のきっかけは、ある夜の巡回中に自分のメモを読み返していて気づいたことだ。
七月から書き始めたノートを最初から見直したとき、俺は途中のページから自分の筆跡が少しずつ変わっていることに気づいた。字が小さくなっていた。はっきりとではなく、ほんの少しずつ、確かに小さくなっていた。そして、最後の方のページには、俺が書いた覚えのない一行が混ざっていた。
「あたたかい」
それだけが、他の行とは明らかに違う筆圧で書かれていた。
俺の字に見えた。でも俺は書いていない。
辞めた後、ノートは捨てた。
捨てた、と書いたが、正確には、燃えるゴミの袋に入れてゴミ置き場に出した。翌朝、回収されたはずだ。
ただ、この文章を書きながら、俺は今、ひとつのことが気になっている。
あのとき先輩から聞いた、「名前の空欄になった巡回記録」のことだ。名前だけじゃなく、存在ごと、記録から消えた人間がいたとしたら。
そして、俺のノートに、俺の筆跡で書かれた「あたたかい」という言葉の意味を考えると。
あの路地が求めていたのは、冷気を与えることじゃなく、体温を集めることだったんじゃないかと。
真昼の方が冷たかった理由も、今ならわかる気がする。昼間の人間の体温の方が、高い。
これを書いている今、俺の指先はすこしだけ、冷たい。
三年経った今も。


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