毎晩、誰かが家具を使っていた

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一人暮らしを始めたはずの部屋で、毎朝、誰かが家具を使った痕跡が残っていた。気配は増え、やがて「もう一人の生活」が完成していく。

あの部屋に住んでいたのは、去年の春から秋にかけての、半年ほどのことだ。

引っ越しの理由は単純で、職場が変わったことによる転居だった。新しい勤務先は、私が生まれ育った町からずいぶん離れた、山と川の間に挟まれたような小さな地方都市にあった。地図で見るとちょうど県境のあたりで、隣の県との境目がどこなのかよくわからないような、そういう曖昧な土地だった。

部屋を決めたのは赴任の三週間前で、現地まで内見に行く時間が取れなかったこともあり、不動産サイトの写真と間取り図だけで契約した。2DK、築二十年ほど、家賃は都内の感覚からすると驚くほど安かった。写真で見る限りは清潔で、日当たりも悪くなさそうで、特に気になるところはなかった。

引っ越し当日、荷物を運び込みながらまず思ったのは、「前の住人の家具がずいぶん残っているな」ということだった。

管理会社の担当者に確認すると、「前の入居者の方が急いで出られたもので、処分が追いついていない」と言った。具体的には、ダイニングテーブルとイス二脚、それから六畳の洋室に据え置かれた木製の本棚が一本、残っていた。いずれも古びてはいるが傷や汚れはなく、「よければそのまま使っていただいて構いません。不要なら撤去します」と言われた。引っ越し費用もかさんでいたし、ちょうど家具をそろえる余裕もなかったので、そのままにしてもらうことにした。

最初の異変に気づいたのは、入居して一週間も経たないころだった。

朝、出勤前にダイニングテーブルを見たとき、イスの位置がおかしいと思った。私は毎晩、食事のあとに両方のイスをテーブルの下に押し込む習慣がある。子どものころから母にそうしなさいと言われて育ったので、意識しなくても自然にそうしている。ところがその朝、一脚のイスがテーブルの下から半分ほど引き出されていた。誰かが座ろうとして、そのまま戻し忘れたような引き出し方だった。

寝ぼけたまま自分でやってしまったんだろう、と最初は思った。夜中にトイレに起きることがあるし、その帰りに何かの拍子にイスに触れたのかもしれない。大して気にせず、出勤した。

でも同じことが翌日も起きた。また一脚だけ、同じように半分引き出されていた。引き出されているのはいつも同じイスで、窓に背を向ける側に置かれた、奥の一脚だった。

その次の朝は、テーブルの上にコップが一つ置かれていた。

私のコップだ。水切りラックの中にしまってあったはずのそれが、テーブルの上の、奥のイスのそばに置かれていた。中は空だった。乾いていた。水が入っていた痕跡もない。ただ、置かれていた。

その日は少し怖くなって、管理会社に連絡した。「部屋に鍵は自分しか持っていないか確認したい」と伝えると、マスターキーは管理会社の金庫で管理していて、入居者の許可なく立ち入ることはないと言われた。鍵の交換もしてもらうことにして、翌日には新しいシリンダーに替えてもらった。

しばらくは何も起きなかった。

三日、四日と静かな朝が続いて、私も少しずつ緊張を解いていった。コップのことは、自分が夢遊病のように夜中に動いていたんじゃないかと思い直した。イスのことも、自分でやっていたのかもしれない。

異変が再開したのは、鍵を替えてからちょうど一週間後だった。

その朝、本棚を見て私は固まった。本棚には私の文庫本が何冊か差してあったのだが、一冊だけ、本が逆さまに挿し戻されていた。背表紙が内側を向いて、小口が手前に来ている。抜き取って、もう一度差したとしか思えない向きだった。

本を逆さにする理由が、私には思い当たらなかった。ページを開いたとき、どこを読んでいたか場所を覚えておくためにやる人もいる、という話をあとで聞いたが、そのときの私はそんな習慣は持っていなかったし、その本はまだ読んでもいなかった。

次の朝は、ダイニングテーブルの上にコップが二つ置かれていた。

私のコップと、もう一つ。見覚えのない、背の低い、少し黄ばんだガラスのコップ。私が持ち込んだものではない。前の住人が残していったもの、ということになるのだろうが、入居のときに棚や押し入れを確認してそんなものは見当たらなかった。どこから出てきたのか、わからなかった。

この日から、私は部屋の中にあるものを写真で記録し始めた。毎朝出勤前と、毎晩寝る前に、テーブルと本棚と玄関を撮影した。変化があればすぐわかるように。

変化は、確かにあった。

まず、テーブルの上のコップが定着した。あの黄ばんだガラスのコップは、私が片付けてもまた翌朝テーブルに出ていた。置かれている位置は毎回同じ、奥のイスのそばだった。

次に、本棚の本が増えた。私の本の隣に、薄い冊子のようなものが一冊差してあった。表紙には何も書いてなく、ページをめくると手書きの文字がびっしり並んでいたが、字が小さくて癖が強く、なんと書いてあるのか読めなかった。怖くてあまりじっくり読む気にもなれず、その日はとりあえず本棚の一番端に押し込んでおいた。

次の朝、その冊子は消えていた。

そのかわりというわけではないだろうが、本棚の前に、折りたたみのパイプ椅子が一脚、畳まれた状態で立てかけてあった。私には身に覚えがなかった。

私は友人に連絡して、週末に泊まりに来てもらった。状況を話すと半信半疑だったが、「一緒に確認してあげる」と言ってくれた。友人の名前は仮にツムギさんとしておく。

ツムギさんが来た夜は、二人で夜遅くまで話して、その後二人ともダイニングテーブルのそばで眠った。ツムギさんはソファに、私は床にマットを敷いて、それぞれ横になった。

翌朝、私が先に目を覚ました。

テーブルを見ると、コップが三つ並んでいた。私のと、黄ばんだガラスのと、もう一つ。見覚えのないコップが、また増えていた。

ツムギさんを起こして見せると、彼女は黙って三つのコップを見ていた。しばらくして「昨夜、何か聞こえなかった?」と言った。聞いていない、と答えると、「私、夜中に一度目が覚めたとき、イスを引く音みたいなものが聞こえた気がした」と言った。でも薄暗くてよく見えなかったし、あなたが寝返りを打った音かと思って、そのまま眠ったと。

ツムギさんが帰ったあと、私はもう一度部屋を確認した。本棚の前に立てかけてあったパイプ椅子が、今度は広げて置かれていた。折りたたまれていた脚が展開されて、座れる状態になっていた。向きは本棚を正面に見るような角度だった。

本棚に向かってイスを広げて座る人間がいた、ということになる。

それが何者なのか、私にはわからない。人間かどうかもわからない。ただ、毎晩、誰かがあの部屋でイスに座り、コップを置き、本棚の本を読んでいるのだとしたら、それはもう私との同居というより、私がその誰かの日課の中に間借りしているような、そういう構図なのかもしれなかった。

私が引っ越しを決めたのは、その次の週のことだった。決め手は小さなことで、ある朝起きたら、テーブルに四つ目のコップが増えていたことだった。怖いというより、なんとなく、これ以上ここにいてはいけない気がした。

退去の際、管理会社の担当者に「前の入居者はどんな方でしたか」と聞いてみた。すると担当者は少し間を置いてから、「それが、はっきりしないんですよ」と言った。入居期間の記録があるのだが、退去の記録がはっきりしない、と。「前の方がいつ出て行かれたのかが、正直よくわからないんです」と苦笑いした。

よくわからない、というのがどういう意味なのか、私はあまり深く聞かなかった。

ただ、最後に荷物をまとめて部屋を出るとき、ふと振り返ったら、ダイニングテーブルのそばのイスが、また半分引き出されていた。私は何も言わずに扉を閉めて、そのまま出てきた。

あのコップたちが今も毎朝テーブルに並んでいるのか、パイプ椅子が今夜も本棚の前に置かれるのか、私にはわからない。ただ、あの部屋で夜を過ごしていた何かは、私がいなくなった今も、変わらずあの場所で、自分の日常を続けているんだろうと思う。

それだけが、今もなんとなく頭の隅に残っている。

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