その路地を、毎晩通っていた

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夜間警備の巡回ルートに含まれた古い路地。「決して立ち止まるな」という口頭の申し送りだけが、代々引き継がれていた。前任者の記録を辿ったとき、同じ違和感が、同じ順番で記されていた。

警備の仕事を始めて、最初の一週間は何も思わなかった。

施設の名前は伏せるが、県境近くにある古い複合ビルで、テナントが数社入っているような、特に変わりのない建物だった。夜間は俺一人で建物全体を担当する。二時間に一度、決められたルートを歩いて各フロアの異常がないか確認し、記録用紙にチェックを入れる。それだけの仕事だ。

問題は、そのルートに含まれている「裏の路地」だった。

建物の北側に、車一台がかろうじて通れるくらいの狭い通路がある。片側はビルの外壁、もう片側は隣接する古いマンションの壁で、両方とも窓がほとんどない。夜になるとほぼ光が届かず、入口と出口それぞれに申し訳程度の外灯が一本あるだけで、中間の十数メートルはほぼ暗闇になる。

引き継ぎの日、前任の先輩——三十代後半くらいの、物静かな人だった——は、ルートの説明をひと通り終えたあと、最後にこう言った。

「あの路地だけど、一個だけ気をつけてほしいことがある」

俺が「はい」と答えると、先輩は少し間を置いてから続けた。

「歩いてる途中で、絶対に立ち止まるな」

理由は教えてくれなかった。「前の人からそう言われたから」と言うだけで、それ以上は何も話さなかった。俺も深くは聞かなかった。夜の路地なんて、立ち止まって良いことは何もない。防犯上の理由かな、と軽く考えて、そのまま受け取った。

最初の二週間は、何ごともなく過ぎた。

路地は確かに薄気味悪かったが、慣れてしまえばどうということもない。懐中電灯で足元を照らしながら一定のペースで歩き、出口に出たらチェックリストに印をつける。それだけだった。

最初に違和感を覚えたのは、十月に入ってすぐのことだったと思う。

その夜、路地を歩いていたとき、中間あたりで足音が聞こえた。自分のものではない足音が、自分の少し後ろについてくるような感じがした。足元を照らすために前を向いていたから振り返らなかったが、砂利を踏む音が、俺の歩調とわずかにずれて聞こえた。

出口まで出てから振り返ると、路地には誰もいなかった。外灯の明かりが入口の近くをぼんやり照らしているだけで、人影はない。

俺はそれを記録用紙の「備考欄」に書いた。「裏路地にて不審な足音を確認。確認時に人影なし」と。

次の週、また同じようなことがあった。今度は足音ではなく、路地の途中で、誰かが息を吸う音に聞こえるものが聞こえた気がした。エアコンの室外機か、排気口の音だと思えばそれまでなのだが、タイミングが妙にヒトっぽかった。俺がちょうど中間あたりを通り過ぎた瞬間に、一回だけ聞こえた。

これも備考欄に書いた。

その後も、週に一度か二度の間隔で、路地を通るたびに何かがあった。音が聞こえる日もあるし、何も聞こえないのに背中の産毛が全部立つような感覚がある日もある。一度だけ、路地の出口付近に人が立っているように見えて、思わず足を緩めかけた。すぐに「立ち止まるな」という先輩の言葉を思い出して、ペースを戻した。出口に出たとき、そこには誰もいなかった。

俺が「立ち止まるな」というルールを本当に意識し始めたのは、その夜からだった。

それまではただの慣習として守っていたが、「足を緩めかけた」ときの、あの感覚が気になった。路地の途中で足が止まりそうになった一瞬、空気がぐっと詰まるような感じがした。止まってはいけない、という感覚が、身体のほうが先に分かっていたような気がした。

十一月の中頃、俺は事務所の棚に並んでいる過去の記録ファイルを引っ張り出した。

夜中の巡回の合間の話だ。事務所には過去数年分の日誌が保管されていて、日付と担当者名と、各ポイントの確認印と、備考欄が並んでいる。俺と同じフォーマットのものだ。

最初に気づいたのは、前任の先輩の名前の欄だった。

先輩は約一年この施設を担当していた。備考欄を順番に読んでいくと、ある時期から「裏路地」という言葉が出てくるようになった。最初は「裏路地にて異音を確認、原因不明」。数週間後には「裏路地中間付近、人の気配あり、確認時に不在」。さらに後には「裏路地出口付近、人影のようなものを視認、出口到着時には確認できず」。

俺が書いてきたものと、ほぼ同じ順番で、同じ内容が並んでいた。

寒気がしたが、俺はもう一冊前のファイルを引っ張り出した。

そこには別の担当者の名前があった。記録は五年以上前のものだ。その人物の備考欄にも、同じような記述があった。「足音らしきものを確認」「人の気配、確認できず」「出口付近に人影、接近時に消えた」。そしてその後に一行、他の記録と少し筆圧が違う感じで書かれていた。

「路地の中間付近で一時停止。理由不明。以後、不眠続く」

俺はそこで手が止まった。

一時停止。

俺がずっと守ってきたルールを、その人は破っていた。意図的かどうかは分からない。「理由不明」と書いてあるくらいだから、おそらく自分でもよく分からないまま立ち止まってしまったのだろう。そしてその後から、記録の文字が少し乱れている。備考欄の内容も変わった。「路地付近、視線を感じる」「巡回中、自分の名を呼ばれた気がする」「路地の出口に、人が待っているような気がしてならない」。

その担当者の記録は、二ヶ月後にぷつりと途切れていた。

俺はもう一冊、さらに古いファイルを探したが、年代が離れすぎていて同じフォーマットではなかった。手書きの当直日誌のような形式で、ほとんどが読み取りにくい。ただ、そのページの中に、一箇所だけ鉛筆で書き込まれたような文字があった。欄外に、ほとんど消えかけているが。

「北路地、止マルナ」

それだけだった。日付も名前もない。

俺はファイルを棚に戻して、椅子に座ったまましばらく動けなかった。

先輩が「前の人からそう言われた」と言っていた意味が、ようやく分かった気がした。あのルールは、誰かが決めたものじゃない。誰かが気づいたものだ。そして、気づいた人間がまた次の人間に伝える。どこから始まったのかは、もうわからない。

今でも俺は、その路地を通っている。

二時間に一度、懐中電灯を持って、一定のペースで歩く。足音が聞こえても、気配がしても、出口の先に人影が見えても、立ち止まらない。足を緩めない。ただ、まっすぐ歩いて、出口に出る。

一つだけ変わったことがある。

最近、路地の中間あたりを通るとき、左の壁のほうから、かすかに何かが聞こえる気がする。音というより、振動に近い。骨に伝わるような低い何かが、ほんの一瞬だけある。

それが何なのか、俺には分からない。

ただ、俺は今日も備考欄に書いている。いつかこのファイルを読む次の担当者のために。

立ち止まるな、と。

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