お盆にダム湖を訪れた会社員が、水面に触れた瞬間から感じ始めた「体温」の記憶。それが何十年も前から、同じ日付に、同じ言葉で記録されていた。
これを書こうと思ったのは、ある古い資料を図書館で見つけてからだ。もう三ヶ月近く経つのに、まだ誰かに話すことができていない。だから今日、ここに残しておくことにした。
去年の八月、お盆の連休に、僕は一人で山奥のダム湖を訪れた。
目的は特に何もなかった。会社の繁忙期が六月まで続いて、七月丸ごとを使い果たして、気づいたらお盆で、どこかへ行かないと体が腐ると思った。それだけだ。旅行の計画も立てず、車に乗って、気の向くまま県境の山道を走っていたら、看板が出てきた。「○○ダム 展望台まで三キロ」という、くすんだ文字の看板だった。
ダムには昔から妙な興味があった。あの、水面の下に何かが沈んでいるという感覚。村があって、道があって、人が生きていたものが、全部水に覆われているという事実。怖いというより、どこか惹かれるものがあった。
展望台からは、青というより灰色に近い水面が見えた。お盆の時期なのに観光客はほとんどおらず、年配の夫婦が一組いるだけだった。風がなく、空気が固まったように蒸していた。
展望台から湖畔へ降りられる細い道があって、特に立入禁止の表示もなかったから、そのまま降りた。岸辺は小石が敷き詰められていて、水際まで近づくことができた。
何の気なしに、僕はしゃがんで、湖の水に手を入れた。
最初に思ったのは、温かい、ということだった。
真夏のダム湖なんだから当然といえば当然かもしれない。ただ、温かいという程度じゃなかった。手のひら全体を包むような、均一な温もりがあった。肌と水の境界がわからなくなるような。お風呂に入っているときに、あるじゃないか。どこまでが自分でどこからが湯なのか、ふとわからなくなる感覚。あれに近かった。
十秒ほど手を入れたまま、僕はその感覚をぼんやりと受け取っていた。
気持ち悪いとは思わなかった。むしろ、妙に落ち着いた。不思議なことに眠気まで来た。真昼間に、湖の岸でしゃがんだまま、目を細めていた。
そのとき、水面に何かが触れた気がした。
水の中から、ではない。水面の下から、僕の手のひらに、指のような何かが触れた、という感覚だった。
僕はすぐに手を引いた。水面には波紋だけが残って、魚も虫も何も見えなかった。もちろん、気のせいだと思った。膝を打って立ち上がり、そのまま展望台に戻った。
ダムを離れるとき、駐車場の端に小さな看板があるのに気づいた。日に焼けて白っぽくなっているが、読めた。「この湖底には、明治期から昭和中期にかけてダム建設のために水没した複数の集落が眠っています」という内容だった。よくある歴史案内だ。しかし最後の一行が少し引っかかった。
「水没前の集落の多くは、この地域の旧盆に合わせた独自の風習を持っていたとされます」
それだけだった。詳細は書かれていなかった。
旧盆。今日はちょうどその時期に当たる。そう気づいたのは、車に乗って三十分ほど走った後だった。
家に帰ってから、手のひらをもう一度見た。特に何もなかった。赤みもなく、痕もなく、ただ乾いた手だった。でも、あの温度のことをずっと考えていた。湖の水って、あんなに温かいものだっただろうか。ダムの深い水って、むしろ冷たいんじゃないか。夏でも底の方は。
気になってスマートフォンで調べてみた。ダム湖の水温についての一般的な記事がいくつか出てきた。やはり夏でも深い層は冷たく、表面でも山間部のダムは外気温より低く保たれることが多い、と書かれていた。あの水は確かに浅瀬だったが、それにしても温かすぎた。体温に近い温度だった、と書くと大げさに聞こえるかもしれないが、本当にそう感じた。
そのまま夏が終わり、秋が来て、僕は例の感覚をほぼ忘れていた。
転機になったのは、十月に入ってからだった。県境の地域史を扱ったブログを読んでいて、あのダムの名称が出てきた。何となく、水没集落について調べたくなって、検索を続けた。
そうして行き着いたのが、その地域の郷土資料室だった。車で片道二時間ほど。土曜日に行ってみることにした。
資料室は図書館の奥にある小さな部屋で、棚に古い冊子や地図が並んでいた。水没集落についての聞き取り記録が何冊かあって、係の人に確認して手に取った。昭和三十年代から四十年代にかけて行われた聞き取り調査の記録だった。
集落に住んでいた高齢者へのインタビューで、風習や行事についての記述がいくつかあった。その中に、旧盆にダム湖の水際で祖先を迎える儀式の記録があった。集落が水没してから、岸辺に出て、水に手を入れ、亡くなった者の体温を感じるという風習があったとされる。
ここで少し立ち止まった。
水没後の話だ。集落が沈んでから、残った人々が岸辺に来て、水の中に眠る家や道や、かつて一緒に暮らした人の温もりを、水温として感じようとした。そういう記録だった。
それ自体は、ひとつの風習の話として読めた。悲しいが、理解できる。
ただ、その次のページに、手書きの注釈があった。資料に誰かが後から書き加えたような字で、こう書かれていた。
「昭和四十八年、旧盆。水際にて調査員が同様の感触を報告。水温の異常な高さと、掌に触れるものについて」
昭和四十八年。僕が生まれるずっと前だ。しかも「掌に触れるもの」という表現が気になって、もう一度読んだ。調査員という人物が何を感じたのか、それ以上の詳細はなかった。ただ「報告した」という事実だけが記録されていた。
ページをめくると、別の薄い冊子に挟まれた紙があった。昭和二十年代に書かれた、別の調査記録の断片のようだった。戦後すぐ、ダム建設を前にした住民の聞き取りだ。そこにも一行あった。
「旧盆の水際での接触感覚は、古くからこの地に伝わる記録にも見られる」
古くから。ダムが建設されるより前。水没するより前。もっと昔から、この場所の水際には、旧盆にあの感覚があったということになる。
僕が帰りの車の中でずっと考えていたのは、一つのことだった。
あの温かさは何だったのか。
水に沈んだ村の人たちが、還ってこようとしていたのか。それとも、もっと古い何かが、水の下に最初からいたのか。
あの日の僕は、ただ手を入れただけだ。観光で来た会社員が、深い意味もなく、水に手を入れただけだ。でも、向こうから触れてきた何かは、そういう区別をしなかった、ということになる。
今でも、水に手を入れるときに少し迷う。
お風呂でも、川でも、どこかで足を止めてしまう。
温かい、と感じた瞬間に、あの水面を思い出す。そしてその下に、人の温もりと見分けのつかない何かが、ずっと前から、毎年同じ日に、水際で誰かを待っているのかもしれない、と考えてしまう。
資料室を出る前に、係の人にあの手書きの注釈について聞いた。誰が書いたものかは不明で、資料が搬入されたときから含まれていたということだった。整理記録によれば、その資料が図書館に寄贈されたのは昭和五十年代初頭。注釈を書いた調査員が誰なのか、今となってはわからないという。
僕は礼を言って、駐車場に出た。空はもう暗くなっていた。
車のドアを開けようとして、手のひらを見た。
何もなかった。ただの手だった。
でも、あの八月の岸辺で、確かに何かが触れた。水の温度は体温と同じだった。そしてそれは、少なくとも記録の上では、同じ時期に、何十年も前から繰り返されていた。
誰かに伝えたくて、でも誰に伝えればいいかわからなくて、今日ここに書いた。
読んでくれたあなたに、最後に一つだけ聞きたい。
お盆に、川や湖の水に手を入れたとき、少しだけ温かいと感じたことはないだろうか。
あれは、夏の気温のせいだと思っていたか。
僕も、そう思っていた。

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