新しいアパートに越してきた夜から、壁の向こうの部屋が少しずつ変わっていった。誰も住んでいないはずの隣室で、毎晩何かが積み上げられていく。
あれは去年の秋のことだ。仕事の都合で急に引っ越しが必要になって、ろくに下見もしないまま決めたアパートだった。
物件は築二十年ほどの二階建てで、県境に近い山間の小さな町にあった。周りにコンビニひとつない場所で、最寄りの駅まで車で十五分かかる。それでも家賃が相場の半分以下だったし、当時の俺には贅沢を言える状況じゃなかった。
部屋は二階の角、二〇三号室。玄関を入ると細い廊下があって、左手にキッチン、奥にひと間の洋室。窓からは裏山の斜面が見える。静かで、むしろ気に入った。問題は、最初からそこにあったんだと思う。ただ俺が気づかなかっただけで。
引っ越した初日、荷物を運び込みながら隣の部屋が気になった。二〇二号室だ。俺の部屋と廊下で繋がっているんじゃなくて、壁一枚を挟んだ隣室ということになる。玄関ドアの前を通ったとき、なんとなく視線が止まった。ドアの前に新聞がひと束、輪ゴムで縛ったまま置いてあった。日付を見たら三ヶ月前のものだった。
管理会社に電話したとき、担当者はさらりと言った。「二〇二号室は現在空室ですので、ご安心ください」と。それだけだった。
最初の一週間は特に何もなかった。仕事帰りに飯を食って、シャワーを浴びて寝る。静かすぎるくらい静かで、かえって良く眠れた。
おかしいと思い始めたのは、入居してから十日目くらいのことだ。
夜中の二時か三時ごろ、目が覚めた。別に大きな音がしたわけじゃない。なんとなく目が開いた、という感じだ。部屋は暗くて、裏山の方から虫の声が聞こえていた。
そのとき、壁の向こうから音がした。
ずり、という音だ。重いものを床の上で引きずるような、くぐもった音。一回だけだった。
俺は布団の中でしばらく息を止めていたが、その後は何も聞こえなかった。壁が薄いだけで、外の音が回り込んでるんだろうと思って、また眠った。
二日後の夜も同じだった。今度は音が二回あった。間隔を置いて、ずり、ずり、と。
そういう夜が、週に三回か四回続いた。毎回決まって深夜の二時から三時の間で、音は一回か二回、それ以上は続かない。大きな音じゃないから眠れないほどじゃないんだが、目が覚めるたびに妙な後味が残った。
一ヶ月が過ぎたころ、俺はある変化に気がついた。
廊下に面した壁、つまり隣室との境にあたる壁に、細い隙間がある。もともとあったんだと思うが、壁紙の継ぎ目に沿って二センチくらいの隙間で、中は真っ暗だった。最初は気にもとめなかったが、ある朝、その隙間から光が漏れているように見えた。
よく見ると光じゃなくて、色だった。ベージュか薄茶色の、何か布のようなものが隙間に触れている。
試しに指を当ててみたら、隙間は思ったより浅くて、向こうに届くわけじゃない。ただそこに、布がある。引っ越したとき確認したときは、何もなかったはずだ。
その週の金曜日、俺は管理会社に電話した。「二〇二号室に誰かいますか」と直接聞いた。担当者はしばらく沈黙してから、「入居者はいません。ご迷惑をおかけしているなら確認します」と言って電話を切った。
週明けになっても折り返しはなかった。
その間にも、夜中の音は続いていた。ずり、という音は変わらないのに、回数だけが少しずつ増えていった。三回になり、四回になり、ある夜などは五回聞いた。数えながら、俺は布団の中で天井を見ていた。
部屋に届いていた荷物のことも、あの頃から気になり始めていた。
俺は通販をよく使う方で、週に二回か三回、宅配の荷物が届く。ある日、帰宅したら玄関ドアの前に不在票が入っていた。いつものことなので翌朝再配達を頼もうとしたら、伝票番号が合わない。問い合わせると「その番号の配達記録はない」と言われた。不在票の様式は見慣れたものだったし、印字も普通だった。でも番号だけがどこにも存在しない。結局荷物は届かなかったし、俺が頼んだ覚えのあるものは別の日に普通に届いた。
その不在票を捨てようとしたとき、ふと差出人の欄を見た。名前はなくて、部屋番号だけが書いてあった。
202、と。
それからしばらく、俺は隣室のことを意識的に考えないようにしていた。怖いというより、触れたくないような気分だった。音は続いていたし、壁の隙間の布は、気がつくと色が変わっていた。ベージュから濃い茶色になっていて、触れると少し硬い。木の端のようだった。家具の一部かもしれない、とそのとき思った。
十二月に入ったある日の夜、俺は思い切って隣室のドアをノックした。返事はない。ドアを押してみたが当然のように鍵がかかっていた。ドアの下の隙間に懐中電灯を当てると、薄く光が反射した。フローリングの床が見えた。その上に、家具の脚らしきものがある。四角い木の脚が四本、見えた。
入居したとき、二〇二号室は空だったはずだ。管理会社もそう言っていた。俺がこの部屋に越してきたとき、隣室のドアの前に新聞はあったが、家具は何もなかった。それは廊下からでも分かった。ドアのガラスが曇りガラスで、うっすら中が透けて見えたから。
あのとき中は空だった。
でも今は、少なくともテーブルらしきものがある。
その夜はずり、という音が七回聞こえた。
管理会社への電話は年明けになった。俺も仕事が立て込んでいて、後回しにしていた部分もある。担当者は相変わらず「確認します」とだけ言って、また折り返してこなかった。
業を煮やして、直接管理会社の事務所に行った。事務所は隣町の国道沿いにあって、俺は二〇二号室についてそのまま話した。音のこと、壁の隙間のこと、ドアの向こうに見えた家具のことを。
担当者は俺の話を最後まで聞いてから、少し考える顔をして言った。「実は二〇二号室については、以前から連絡を入れてはいるんですが、前の入居者の方が荷物を一部残したまま退去されていて」
「どういうことですか」
「退去の際に家財道具をいくつか置いていかれて、処分の手続きをしているところなんです。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
俺はそこで少し間を置いて、聞いた。「でも俺が越してきたとき、廊下のガラス越しに見えた範囲では、部屋に何もなかったですよ」
担当者はまた少し黙った。「そうですか」とだけ言った。
それ以上、話は続かなかった。
その後、管理会社から荷物の処分が完了したという連絡が来た。三月の初めだった。廊下で二〇二号室のドアの前を通ると、新聞の束はなくなっていた。ドアの曇りガラスを見ると、中は空になっていた。フローリングの床が見えるだけだった。
夜中の音も、それ以来聞いていない。
ただ気になることが一つある。
部屋の壁の隙間、壁紙の継ぎ目のところを、先日また確認した。木片みたいなものは消えていた。布も何もない。壁の向こうには何もなくて、ただ暗かった。
でも、隙間から向こうを覗いたとき、なんとなく空気が動いた気がした。呼吸のような、ゆっくりした、規則的な揺らぎ。
気のせいだとは思う。
ただ、あの不在票のことをまだ考えることがある。差出人の欄に書いてあった部屋番号、202。あの荷物は結局、俺のところには届かなかった。
じゃあどこに届いたんだろう、と。
それだけが、今もわからないままだ。

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