深夜の配達ルートで見つけた祠は、真夏の夜なのに雪が積もっていた。それ以来、俺はあの場所が少しずつ変わっていくのを、気づかないふりができなくなった。
俺が軽貨物の配達員をやり始めたのは、三十二歳のときだった。
前の会社を辞めて、とにかく人と関わらなくていい仕事がしたかった。面接も履歴書もほぼ形式だけで、免許さえあれば翌月から働けると聞いて飛びついた。担当エリアは山沿いの町で、県境に近いせいか、夏でも夜は少し涼しい。それが気に入っていた。
最初の一年は何もなかった。深夜の配達は基本的に静かで、犬に吠えられるか、街灯が少なくて道が暗いか、その程度だった。怖い話が好きな人間は、夜の仕事をすると必ず何かに出会うものだと言うが、俺はそういう感受性が薄い方らしく、本当に何も起きなかった。
最初に気づいたのは、去年の八月のことだ。
深夜二時をまわった頃、いつも通る農道の脇で、荷物の配達先を探してUターンした。そのとき、ヘッドライトが山の斜面を一瞬照らした。木の間に、細い石段があった。
普段はそんなところに目を向けないが、その夜に限って、なぜか車を止めた。自分でも理由はわからない。ただ、なんとなく、気になった。
石段は十五段くらいしかなかった。登り切ると、小さな祠があった。木製で、塗装が剥げて、側面に苔が生えている。地元の集落が昔から管理しているような、ありふれた造りだった。
問題は、足元だった。
八月の、真夜中だ。外気温は二十六度くらいある。俺はTシャツ一枚で汗をかきながら車を運転していた。
なのに、祠の周り五メートルほどだけ、薄く雪が積もっていた。
最初は目を疑った。何かの見間違いかと思って、スマホのライトで照らした。間違いなく雪だった。触ると、指に冷たさが残った。溶けかけているが、はっきりと白い。吐いた息が白くなった。
呼吸が少し速くなった気がしたが、俺は一度だけ祠に向かって軽く頭を下げて、すぐに石段を降りた。配達の仕事があったし、とにかく早く離れたかった。
その後しばらくは、その道を通る度に石段を確認した。雪は翌朝にはなくなっていた。夏の間、あの場所を何度も見たが、それ以降は普通だった。草が生えて、苔があって、石段の脇に古い賽銭箱が置いてあるだけだった。
忘れかけていた、十月の初めに、また変なことがあった。
その夜も深夜の配達で、同じ農道を通った。時刻は一時五十分頃だったと思う。石段の前を通りかかったとき、また気になって、車を止めた。
今度は、雪ではなかった。
桜が咲いていた。
石段の両脇に、低木の桜が一本ずつ植わっているのは知っていた。いつも葉だけだったから、枝の形で木の種類がわかる程度で、特に気にしていなかった。
でも、その夜は、両方の木にびっしりと花が咲いていた。
十月に桜が咲くことは、ないわけじゃない。狂い咲きというやつで、気温が一時的に下がると勘違いして咲くことがある。でもそれは普通、ぱらぱらと数輪咲くくらいで、満開になることはほぼない。
あの木は、満開だった。しかも、ライトで照らした瞬間、花びらがはらはらと散った。まるで春の盛りを過ぎた頃のように。
そして気づいた。祠の前の地面が、桜の花びらで白く覆われていた。積もっているというより、絨毯のように敷き詰められていた。
俺はその場で五分くらい立ち尽くしたと思う。風はなかった。なのに、花びらがまた数枚ふわりと落ちた。
頭を下げて、また降りた。
翌日、明るい時間に確認しに行ったら、普通の秋の木だった。枯れかけた葉が数枚残っている、ごく普通の木。地面には、花びらの一枚もなかった。
俺は、その祠について調べようとした。でも、町の図書館で古い地図を見ても、あの場所に印はなかった。地元の農家の老人に、さりげなく聞いてみたら、「ああ、山の神様の祠じゃないか」とだけ言って、詳しいことは知らないと言った。怖がっている様子もなかった。
そのまま十一月になった。
ある夜、また同じ時間帯に農道を通った。この頃になると、あの石段の前を通るたびに、俺は少し息を止める癖がついていた。
その日は、何もなかった。雪もなく、花もなく、ただ暗い木が二本立っているだけだった。
俺はなぜか、そのことに安堵せず、逆に落ち着かなかった。
理由は、石段を照らしたときに気づいた。賽銭箱の位置が、少しずれていた。これは自信がなかった。もともとどこにあったか、正確に覚えていたわけじゃない。でも、前は石段を上がって左側にあった気がしたのに、その日は右側に置いてあった。
それから一週間後、また通った。今度は深夜一時四十分頃。
祠の周りに、紅葉した葉が敷き詰められていた。
ただの落ち葉なら当然だが、問題は、あの山の斜面にはそのような広葉樹がないことだった。細い杉と雑木林が続いているだけで、紅葉するような木は、俺の知る限りなかった。
それに、その紅葉の色が鮮やかすぎた。夜なのに、スマホのライトで照らすと、燃えるような橙と赤だった。もう少し時間が経てば色あせるような、最後の盛りの色だった。
俺はこの夜、初めて石段を登ることをやめた。
なんとなく、登ってはいけないような気がした。登りたいという気持ちも、ふと消えた。俺はただ、農道の端に車を止めて、石段の上の祠を眺めた。
しばらくすると、風が来て、紅葉の葉が一斉に舞い上がった。赤と橙の葉が、夜の中を舞って、ゆっくりと落ちていった。
俺はそのとき、思った。
あの祠は、季節が違う。
同じ夜の、同じ気温の中で、あの場所だけ、違う季節が来る。雪が積もったり、桜が咲いたり、紅葉が舞ったりする。まるで、この世界の時間の流れから外れたところに、あの祠だけが存在しているみたいに。
それが怖いのかどうか、正直わからなかった。怖い、とは少し違う感覚だった。どちらかというと、会ってはいけないものを見てしまったような、後ろめたさに似た何かだった。
十二月に入って、俺は担当エリアの一部が変更になった。その農道を通ることが、ほぼなくなった。
年が明けた一月の終わり、久しぶりにあの道を通る配達が入った。深夜二時前、石段の前を通りかかった俺は、また車を止めた。
正直、怖かった。でも足が動いた。
今度は石段を登った。
祠の前に立ったとき、気温は普通だった。雪もなく、花もなく、葉もなかった。ただ、冬の夜の空気が、静かにあるだけだった。
俺はしばらくその場に立っていた。
そのとき、祠の扉の隙間から、かすかに光が漏れていた。ろうそくか、あるいは虫の残り火か、そういった弱い橙の光だった。
なんとなく、誰かがいるような気がした。祠の中に、という話じゃない。この場所全体に、何かがいる、という感覚だ。ただ、それは怖いというより、静かな感じだった。深夜の森の中で、一人で息を潜めているような、あの独特の静けさと同じ種類のものだった。
俺は、財布の中に入れていた五十円玉を取り出して、賽銭箱に入れた。なぜ五十円かというと、穴が開いているコインは、向こうとこちらをつなぐと聞いたことがあったからだ。根拠のない話だが、なんとなくそうしたかった。
頭を下げて、石段を降りた。
それから今まで、あの祠でおかしなことは起きていない。毎回同じ、夜の暗い木が二本と、苔の生えた祠があるだけだ。
でも俺は、通る度に頭を下げるようにしている。季節が来たときだけ、あの場所に存在を示す何かがいる。そういうものが、この世界には確かにある。それがわかったことが、怖かったのか、それとも少し安心したのか、俺にはまだうまく言葉にできない。
ただ一つ、確かなことがある。
あの夜、五十円玉を入れた後、石段を降りながら空を見上げたら、星が妙にはっきりと見えた。冬の星は元々きれいだが、あの夜は特別だった。俺は、なんとなくだが、怒られていない、と思った。
追い返されたわけでも、呪われたわけでも、ないような気がした。
それだけで、十分だった。

コメント