休憩室の、誰も座らない席のこと

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これはフィクションです。ある中小企業の休憩室にだけ存在する、誰も使わない机。誰もその理由を教えてくれないまま、語り手はじわじわとその「席」の正体に近づいていく創作怪談です。

転職というのは、どこへ行っても最初の数週間は「よそ者」の感覚が抜けないものだ。新しいオフィスの空気、飲み物の場所、給湯器の使い方、挨拶の順番。そういう細かいことを少しずつ覚えながら、なんとか馴染もうとする。俺が今の会社に入ったのは三十二歳の秋で、総務部の端っこに席をもらい、最初の一週間は自分のデスクと画面と、必要最低限の言葉だけで生きていた。

違和感を覚えたのは、入社して十日ほど経ったころだ。

休憩室というのは、会社の規模にしてはやや広かった。四人掛けのテーブルが三つと、壁際に小さなカウンタースペース、それからコーヒーメーカーと電子レンジが並んでいる、よくある造りだった。ただ、部屋の隅に一つだけ、他のテーブルから少し離れた場所に、一人用の机が置かれていた。折りたたみ式でもなく、作り付けでもない、ちょうど学校の教室にあるような、木製の天板に金属の脚がついた古い机だ。

椅子は一脚、机の正面にきちんと入れてある。

俺はそれを最初に見たとき、誰かのパーソナルスペースか、あるいは置き場所に困った備品でも仮置きしているのかと思った。天板には何も置かれていない。引き出しもなく、ただそこにあるだけだった。

ある日の昼休み、同じ部署の先輩、田中さんという五十手前のおとなしい男性と一緒にお茶を飲みながら、俺はそれとなく聞いてみた。「あの隅の机って、何に使うんですか」と。田中さんはコーヒーカップを持ったまま一瞬止まり、「ああ、あれね」と言って、特に表情を変えることなく「昔からあるやつだよ」とだけ答えた。それ以上の説明はなかった。

俺も深くは聞かなかった。会社というのは古い備品ほど説明がつかなくなるもので、誰かが必要だと言ったのか、いつのまにか居座っているのか、そういうことはよくある。

ただ、気になったことがある。

社員は誰も、あの机を使わないのだ。

休憩室が混む時間帯でも、座席が全部埋まっても、誰もあの机のほうへは向かわない。立って飲む人はいても、あの椅子には座らない。俺が観察し始めてから、一度も例外を見ていない。ルールとして禁止されているわけでも、汚れているわけでも、壊れているわけでもない。ただ、誰も近づかない。

少しして、総務の後輩の女の子、渡辺さんに軽い感じで聞いてみた。「休憩室の隅の机、あれ何なの」と。彼女は「え」と顔を上げて、ちょっとだけ間を置いてから「あー、知らないんですか」と言いかけて、でもそこで言葉を飲み込んだ。「……まあ、近づかないほうがいいですよ」とだけ言って、それ以上は話してくれなかった。

近づかないほうがいい、という言葉が、妙に頭に残った。

俺はその日の昼、一人で休憩室に入り、コーヒーを淹れてから、初めてあの机に正面から近づいてみた。別に何ということもない。木製の天板は薄く埃が積もっていて、誰も触れていないことは見れば分かる。椅子は安定していて、ぐらつきもない。引き出しはなく、机の裏面も何も書いていない。ただ、なんとなく、その椅子の座面の部分だけが、少しだけ埃の積もり方が薄い気がした。

気のせいだと思った。換気扇の風が当たりやすいのかもしれないし、誰かが掃除の時に拭いたのかもしれない。俺は自分のコーヒーを持って、いつものテーブルに戻った。

それから一週間ほどして、夜残業した日のことだった。

ビルの清掃が入る時間帯で、フロアの掃除機の音が廊下に聞こえていた。俺は画面に向かいながら、何か飲もうと思って休憩室に入った。電気をつけると、部屋はいつも通りで、何も変わっていない。コーヒーを淹れながら、ふと視線を隅のほうへやると、あの机の椅子が、少しだけ引き出されていた。

机から椅子が外に出ている。誰かが座ったか、動かしたような角度で。

清掃の人が当たったのかもしれない、と思った。それしか考えられない。俺はコーヒーを持って自分の席に戻り、それから三十分後に仕事を終えた。帰り際にもう一度休憩室の前を通ったとき、ドアが開いていたのでふと見ると、電気は消えていて、でも椅子は、さっきより少しだけ、また引き出されていた。

俺は電気をつけなかった。そのまま帰った。

それ以来、俺はあの机のことを意識するようになった。毎日ではなく、でも何度か、椅子が引き出されていることに気づく。誰かが座ったような位置に。翌朝見るとまた机の中に入っている。引き出した人間がいて、戻した人間がいる、ということなのか、それとも誰かが毎日引き出しているのか、俺にはわからない。

ある日、勤続十五年になるという、経理の三上さんという男性と喫煙所で話す機会があった。俺は少し前置きをして、休憩室の机のことを聞いてみた。三上さんは煙草を吸いながら、しばらく黙ってから「ああ」と言った。

「昔さ、あそこに席があったんだよ」と彼は言った。

「席?」

「うん。今はもう配置変わってるけど、昔はあそこが休憩スペースじゃなくて、一部作業スペースになってた時期があってね。あの机、そのときの名残だと思う」

それだけ聞けば、話は終わるはずだった。でも三上さんは煙草をちょっと持て余すみたいに指先で転がしてから、「まあ、ただ……」と続けた。

「あそこで作業してた人が、あそこで倒れたんだよね。脳梗塞で。そのまま亡くなった」

俺は少し間を置いて「それ、いつの話ですか」と聞いた。

「十年、いや十二年くらい前かな。俺が入ったばかりの頃だから」三上さんはそこで少し口をつぐんでから、「机は処分するって話も何回か出たらしいんだけど、なんか……そのたびに立ち消えになってるんだよね。理由は知らない」と言った。

その後、俺は特に何かを確認しようとはしなかった。怖かったとか、信じたとか、そういうことではなく、もうそれ以上聞かなくていいような気がした。

ただ、一つだけ気になることが残った。

三上さんに聞いた、「倒れた人」の話。脳梗塞で急に倒れた、ということは、当然、一人だった可能性がある。誰かに発見されるまでの時間があった、ということだ。その人はあの机に向かって座っていて、そのまま崩れ落ちた。誰も気づかないまま、時間が経った。

俺はそれを聞いた日の夜、残業して、またあの休憩室に一人で入ることになった。

コーヒーを淹れながら、自然と視線があの隅に向いた。

椅子が引き出されていた。

俺は別に驚かなかった。驚かないほうが、むしろ自分でも変だと思った。ただ、じっとその椅子を見ていると、座面の部分に、わずかに窪みのようなものがあることに気づいた。長年、同じ体重がかかり続けたような、静かな窪み。

それが使用痕なのか、元々そういう形なのか、俺には判断できない。

俺はコーヒーを持って、あの椅子から目を逸らして、いつものテーブルに座った。

それから今日まで、俺はあの机のことを誰かに詳しく話したことはない。椅子が引き出されているのを見るのは、今も変わらず、月に何度かある。誰が動かしているのか、聞いたことはない。田中さんも渡辺さんも、その話題が出ると、なんとなく話を変える。

会社の中にそういう場所があって、誰もそれを問題にしていない。机は古くて、椅子は静かで、天板には誰の荷物も置かれない。

俺がたまに気になるのは、ただ一つのことだ。

椅子が引き出されているとき、その向きが、いつも同じ方向を向いていること。

休憩室のドアのほうを、まっすぐ向いている。

入ってくる人間を、待つように。

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