旧居の郵便受けに届いた手紙のこと

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引っ越しから数ヶ月が経っても、かつて住んでいたアパートの郵便受けに自分宛の手紙が届き続けた。差出人の名前に、見覚えはなかった。

引っ越しというのは、思ったよりも長い尾を引くものだと思う。転送届を出しても、どこかから旧住所に郵便が届いたり、昔の知人から古い住所に年賀状が来たり。そういう小さな取りこぼしが、何ヶ月もあとになってひょっこり顔を出す。だから最初は、そういう「取りこぼし」のひとつだと思っていた。

俺が件のアパートを引っ越したのは、三月の末のことだった。仕事の都合で、県境をまたいだ移動になった。住んでいたのは山沿いのひっそりした町で、駅からバスで二十分ほどかかる、古い二階建てのアパートだった。築年数は不動産屋も曖昧にしていたが、外廊下の手すりや郵便受けのくたびれ具合からして、三十年は下らないだろうと思っていた。それでも家賃は安く、周囲が静かで、俺にはちょうどよかった。

退去の手続きは特に問題なく終わった。敷金も戻ってきたし、管理会社との間に揉めごとはなかった。荷物をすべて運び出して、鍵を返して、それで終わりのはずだった。

最初に気づいたのは、引っ越しから一ヶ月半ほど経った五月の連休明けだった。

新居に落ち着き始めた頃、旧居のあった町に用事があって、車で戻る機会があった。以前から世話になっていた整骨院がその町にあって、新しい通院先を探すのが面倒だったこともあり、数回分の予約をまとめて入れていたのだ。整骨院を出た帰り道、なんとなく気になって旧居のアパートの前を通ってみた。懐かしいというよりは、確認したい気持ちだった。引っ越した場所というのは、自分がいなくなったあとどうなっているか、少し気になるものだ。

外から見るかぎり、アパートはいつもと変わらない様子だった。外廊下に洗濯物が出ていたり、誰かの自転車が駐輪場に置いてあったりして、普通に人が住んでいる気配があった。俺が住んでいた部屋は一階の端で、郵便受けは建物の入り口脇にまとめて並んでいた。何の気なしに視線を向けると、俺の旧部屋番号のプレートのついた郵便受けに、白い封筒が差し込まれているのが見えた。

次の入居者宛のものだろう、と思った。もう自分には関係ないと頭では分かっていたが、なんとなく気になって、近づいてみた。郵便受けは鍵がかかっていた。当然だ。でも、差し込み口から覗いた封筒の宛名が、目に入った。

俺の名前だった。

旧住所に、俺のフルネームで書かれていた。差出人の欄には、「三瓶」という名前だけがあった。苗字だけで、住所の記載はなかった。

不審に思いながらも、郵便受けはもう自分のものではないから触ることもできない。管理会社に連絡して転送してもらうべきか、しばらく考えたが、差出人に心当たりがないまま迷って、結局その日はそのまま帰った。

翌週、再び整骨院に行く予定があったので、また通り道にアパートの前を通った。今度は意識してゆっくり走らせた。郵便受けを見ると、また白い封筒が差し込まれていた。前の封筒がまだそこにあるのか、新しい封筒が来たのか、外からでは分からなかった。

俺は車を停めて、管理会社に電話した。事情を説明すると、担当者は少し困ったような声で「確認します」と言って、翌日折り返してきた。

「ご転居後に届いているお手紙について確認いたしました。実は三通ほど、同じ方からのようで……一応保管しておりますが、どうされますか」

三通。俺が最初に気づいたのが一通で、もう一週間で合計三通になっていたということだった。いずれも差出人は「三瓶」とだけ書かれていて、住所はないという。「転送先にお送りしてもよいですか」と言われたが、なぜか俺は口ごもって、「少し待ってください」と答えてしまった。

「三瓶」という名前を、俺はほとんど知らなかった。完全に知らないとは言い切れない、という感覚が少しあった。どこかで聞いたことがあるような、でも具体的な顔や場面は浮かんでこないような、奇妙なひっかかりがあった。

その夜、昔の連絡先を片っ端から確かめてみた。スマートフォンの連絡帳、メールの送受信履歴、SNSのフォロワーリスト。どこにも「三瓶」という名前はなかった。

しかしそれから一週間後、また管理会社から連絡が来た。「また届いておりまして」と。これで四通目になる。担当者の声が、前回より少し低かった気がした。

さすがに受け取ることにして、管理会社まで取りに行った。手渡された四通の封筒は、すべて同じ白い封筒で、同じ字で書かれていた。筆圧の強い、太い字だった。差出人欄の「三瓶」という文字は、毎回まったく同じ書き方をしていて、まるでスタンプで押したようだと思った。

封を開けることを、少しためらった。知らない差出人からの手紙を開けることへの抵抗感というより、開けたら何かが変わってしまうような予感があった。

それでも、開けた。

中には一枚の便箋が入っていた。白い、罫線のない紙に、短い文章が書かれていた。

「おかえりになりましたか」

四通とも、まったく同じ文章だった。

一通目からそうなのか、途中から変わったのかは分からない。封を開けたのが初めてだったから、確かめようがない。

「おかえりになりましたか」。

どこへの帰りを指しているのか、まったく分からなかった。俺は引っ越して「帰った」わけではなく、新しい土地に「移った」のだから、問いの前提が噛み合っていない。誤配達、あるいは全く別人宛のものが、名前の似た誰かと混同されて届いているのかとも思ったが、宛名は俺のフルネームで間違いなかった。

管理会社の担当者に、その部屋に以前住んでいた人のことを聞こうとしたが、「個人情報になるので」と丁重に断られた。当然だった。

それから二週間、手紙は届かなかった。少し落ち着いてきた頃、整骨院の帰りに習慣のようになっていたアパートの前を通ると、郵便受けにまた白い封筒が見えた。

今度は俺は車を停めなかった。管理会社への連絡もしなかった。見なかったことにしようと思った。

翌朝、俺のスマートフォンに見知らぬ番号から電話があった。出ると、しばらく無音だった。切ろうとした瞬間、女性の声が聞こえた。年齢は分からない、落ち着いているが、どこか遠いところから話しているような声だった。

「あの部屋に、ものを忘れてきていませんか」

それだけ言って、電話は切れた。

番号を調べると、市外局番からはじまる固定電話の番号だった。県境の向こう側の、山あいの地域の番号だということは分かった。折り返してみると、「おかけになった番号は現在使われておりません」というアナウンスが流れた。

俺はしばらく、退去した部屋に何かを忘れていないか考えた。すべての荷物を運び出したはずだった。管理会社の退去確認でも指摘はなかった。それでも、もし何かを置いてきたとして、それが何なのか、俺には分からなかった。

最後に管理会社から連絡が来たのは、その二日後だった。

「先ほど確認しましたところ、郵便受けに手紙が七通入っておりまして、それ以前にお渡しした四通と合わせて十一通になります。ただ……」

担当者が言葉を選ぶような間があった。

「今朝、清掃の方が一階の外廊下を確認したところ、旧お部屋の玄関ドアの前に、封筒が一枚置かれておりました。郵便受けではなく、ドアの前に直接。部屋は現在、空室の状態でして……」

俺はそこで初めて、旧部屋が今も空室だということを知った。俺が退去してから五ヶ月、次の入居者はまだ来ていなかったということだった。

「どなたかが直接、ドアの前まで来ていたということですか」と聞くと、担当者は「それが、外廊下には防犯カメラがないもので」と言って、やはり言葉を止めた。

ドアの前に置かれていた封筒には、宛名も差出人の名前も書かれていなかった、と聞かされた。中身は確認していないという。俺は「処分してください」と言った。

担当者は「分かりました」と答えたが、声は少し沈んでいた。

それから手紙は届かなくなった。少なくとも、管理会社からの連絡はなくなった。

ただ、一つだけ、今でも気になっていることがある。

俺がその部屋に越してきたのは、三年前の秋のことだった。引っ越しの準備をしていたとき、押し入れの奥から前の入居者の忘れ物らしき紙袋が出てきた。管理会社に渡すのが面倒で、そのまま放っておいた。退去のとき、その紙袋を持って出たのか出なかったのか、俺にはもう記憶がない。

新居のどこを探しても、その紙袋は見当たらない。

「あの部屋に、ものを忘れてきていませんか」

俺が忘れてきたのか。それとも、誰かの忘れ物を、俺が五ヶ月間預かっていて、退去のときに置いてきてしまったのか。

今となっては、確かめる方法がない。

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