引っ越して間もない頃から、飼い猫がリビングの一角をじっと見つめるようになった。最初は「猫あるある」だと笑っていたのに、やがてそれが笑えない話になっていった。
猫を飼ったことがある人なら、きっと一度は経験したことがあると思う。
ふと気づくと、猫が部屋の何もない一点をじっと見つめている。壁の染みでも、虫でもない。ただの空間。それが少し薄気味悪くて、でも「猫ってそういうもんだよね」と笑って済ませた経験。
私もずっとそう思っていた。うちのミルクが変なところを見ていても、「また始まった」って苦笑いして、それで終わりにしていた。でも今となっては、もっと早くにちゃんと向き合っておけばよかったと思っている。
引っ越してきたのは、私が二十八歳の秋だった。仕事の都合で、県境に近い小さな町に移り住むことになった。その町は山と川に挟まれた静かな場所で、スーパーまで車で十五分かかるような、いわゆる何もないところだった。でも家賃が安くて、部屋が広かった。一人暮らしにしては広すぎるくらいの、古い一軒家を借りることにした。
一緒に連れてきたのが、ミルクだった。三歳になったばかりの白猫で、元々実家から引き取った子だ。おとなしくて、めったに鳴かなくて、初日から新しい家を探索して満足そうにしていた。警戒心が薄いのか、それとも鈍いのか、いつも我が物顔で床に転がっていた。
異変に気づいたのは、引っ越してから二週間ほど経った頃だと思う。
夜、ご飯を食べ終えてリビングでぼんやりテレビを見ていたら、ミルクがいつの間にかソファの端に座っていた。それ自体はよくあることだったんだけど、その視線の先が気になった。テレビでもなく、私でもなく、リビングの隅、ダイニングテーブルの向こう側、窓とは反対側の壁際を、じっと見ている。
何かいる?と思って私もそっちを見たけど、何もなかった。壁。ただの壁。
「ミルク、何見てんの」と声をかけたら、振り返りもせずにずっと同じ方向を見ていた。しばらくしてから、すたすたとどこかへ行ってしまった。
次の日も同じだった。夕方、私が台所でご飯を作っていると、ミルクがリビングに座って、また同じ壁際を見ていた。今度は立ったまま、背筋をすっと伸ばして、まるで何かを観察しているみたいに。
「猫ってこういうもんだから」と自分に言い聞かせて、その日は気にしないようにした。
でも、頻度が高くなっていった。
一週間もすると、ミルクが一日に何度もその場所を見るようになっていた。朝起きたときも、昼間も、夜寝る前も。そして気になったのは、見る時間が少しずつ長くなっていることだった。最初は数分だったのに、やがて三十分近く、ただじっとそこを見続けるようになった。
ある夜、試しにミルクが見ている方向に、スマホのカメラを向けて録画してみた。心霊動画みたいなことをするつもりはなかったんだけど、なんとなく証拠を残しておきたかったのだと思う。でも映像には何も映らなかった。白い壁と、床と、コンセントの口だけ。
翌朝、何気なくその動画を見直していたら、一か所だけ気になるところがあった。録画の終わり近く、ミルクが急に振り返って私の方を見た後、またゆっくりと壁際に視線を戻す瞬間があった。その間、ほんの一、二秒なんだけど、ミルクの耳がぴんと立って、尻尾の先が小さく動いていた。まるで、動くものを追うときの動作みたいに。
でも壁には何もなかった。
このあたりから、私の中で笑えなくなってきた。
職場の同僚に話したら、「霊感ある猫なんじゃない?」と冗談っぽく言われた。もう一人は「古い家だからネズミとかいるんじゃないの」と言った。その方が現実的な説明だと思って、業者に頼んで害獣調査をしてもらったけど、何も見つからなかった。
それから少し経って、近所に住む老夫婦と話す機会があった。私が引っ越してきたことを知って、わざわざあいさつに来てくれた人たちだ。世間話の中で、この家のことを少し聞いてみた。前の住人はどんな人だったか、何か変わったことはなかったか、という話を自然な流れで振ってみた。
老夫婦は少し顔を見合わせてから、「ああ、あの家か」というような間を置いた。
奥さんの方が言った。前にここに住んでいた家族は、三年ほど前に急に出て行ったのだと。理由は聞かなかったけど、子どもがいた家族で、子どもがなぜか毎晩泣いていたらしい。泣き止まないから夫婦が様子を見に行くと、子どもはリビングの隅を指さしていたという。
「どこを指さしてたかまでは知らないけどね」と奥さんは言った。「でも子どもって、大人には見えないものが見えるって言うじゃないですか」
笑いながら言っていたけど、私は笑えなかった。
リビングの隅。
その夜、ミルクはいつもより長い時間、その場所を見ていた。私はソファに座って、ミルクの横顔を眺めながら、何かを待っているような気分になっていた。何を待っているのか自分でもわからなかったけど、なんとなく、見てはいけないものに近づいている気がした。
転機になったのは、十一月の終わりだった。
夜中の二時ごろ、物音で目が覚めた。はっきりした音ではなく、何かが床を引きずるような、低くて小さな音だった。寝ぼけていたから最初は夢かと思ったけど、目が完全に覚めてからも音は続いていた。
リビングの方から聞こえていた。
怖かった。でも、ミルクが心配だった。ミルクはいつもリビングで寝るから。意を決して起き上がって、廊下の電気をつけながらリビングのドアを開けた。
ミルクは、いた。
リビングの真ん中に座って、いつもの壁際を見ていた。でも、今までと少し違った。体が微妙に低くなっていた。猫が警戒するときの姿勢、背中をわずかに丸めて、頭を下げて、目だけで追っているときの体勢。
音はもう止まっていた。
私は壁際を見た。やっぱり何もなかった。でも、そのとき初めて気がついたことがあった。その壁の下、床との境目あたりに、古い畳の跡みたいな四角い色の違いがあった。リノベーションで床を張り替えたのか、その形が微かに残っていた。畳の間取り、部屋の区切り。今はリビングとして一続きになっているけど、以前はそこに壁があったのかもしれない。
つまり、もともとは別の部屋だった。
それがなんだというわけじゃない。古い家なんだから間取りが変わっていても不思議じゃない。でも私はなぜか、その四角い跡を見ながら、ミルクがずっと見ていた場所がその範囲の中に収まっていることに気づいた。いつも同じ点ではなく、ある一定の空間、かつてそこに部屋があったと思われる範囲の中を、ミルクはずっと追っていた。
動いているものを、追っていた。
その解釈が正しいとは言えない。ただそう思った。
年が明けてから、私は引っ越した。理由はいくつかあって、仕事の変化もあったし、一人でその家に住み続けることへの疲れもあった。怖くなったとはっきり言えばそれまでだけど、怖いというより消耗していた。
引っ越す前日、荷物をほとんど出したがらんとしたリビングで、ミルクを抱えて最後にあの場所を見た。何もなかった。本当に何もなかった。
でもミルクは、私の腕の中でしばらくそこを見ていた。抱かれながらも首だけ向けて、じっとそこを見ていた。
それが最後だった。
新しい家に移ってから、ミルクはもうあんなふうに一点を見つめることはなくなった。普通の猫に戻った。窓から外を眺めて、ご飯を食べて、膝の上で寝る。以前と変わらない。
ただ、今でも時々思い出す。あの壁際に、何がいたんだろうと。
ミルクが追っていたものは、動いていた。部屋の中を、動き回っていた。
だとしたら、私も同じ空間にいたということになる。ずっと、一緒に。
気づかないまま、ただそこにいた。
それが怖いのか、それとも別に怖くないのか、今でもよくわからない。ただ、ミルクはあの家では一度も、私の膝では眠らなかった。
それだけは確かだと思っている。


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