旅行先で撮った写真を見返すと、自分が写っていないはずのカットに、自分の影だけが落ちている。最初は光の加減だと思っていたのに、枚数が増えるにつれて、それは別の何かの証明になっていった。
その旅行の写真を整理したのは、帰ってきてから三日後のことだった。
私は当時、ひとりで旅をすることが多かった。会社を辞めて少し時間ができた時期で、誰かに気を遣わずに動けることが純粋に楽しかった。その旅も、県境に近い古い宿場町を目的地にした、二泊三日の一人旅だった。
特別怖いことが起きたわけではない。少なくとも、旅の最中は。
石畳の続く古い通りを歩いて、土産物屋を覗いて、昼は地元の食堂でひとり定食を食べた。天気もよくて、光がやわらかくて、すごくいい旅だったと思う。写真もたくさん撮った。スマートフォンで、気が向いたときにパシャパシャと。
帰宅してから写真アプリで整理していたとき、最初は気づかなかった。
枚数が多かったのと、旅の余韻でぼんやりしていたのもあって、ただ眺めていた。石畳の写真、古い格子戸の写真、川沿いの柳の写真。どれも構図としてはそんなにうまくないけれど、雰囲気は伝わるかな、という感じの写真たちだった。
気づいたのは、五十枚ほど見進めたあたりだった。
石畳を撮った写真のひとつに、細長い影が落ちていた。斜めに伸びた、人の影。私はそのとき確かひとりで立って撮っていたから、他に人がいるはずはなかった。でも影があった。それだけなら、誰か通行人が近くにいたのかな、で終わっていた。
問題は、次の写真だった。
同じ石畳を角度を変えて撮ったもの。時系列でいえば一枚前の写真の数十秒後のはずで、周りに人の気配はなかったと記憶している。なのにそこにも影が落ちていた。
形が似ていた。細長い、人の影。
そしてその影は、私が立っていたはずの場所から伸びていた。
最初は、自分の影だと思った。それが一番自然な解釈だし、光の角度によってはそういうふうに写ることもあるだろうと思った。でも、おかしかった。私は写真を撮るとき、スマートフォンを前方に向けていた。つまり、カメラのレンズは前を向いていて、私の体はその後ろ側にあるはずで、自分の影がフレームのど真ん中に落ちるような撮り方はしていないはずなのだ。
気になって、別の写真を確認した。
柳の写真。河原から川沿いを撮ったもの。そこにも影があった。地面に伸びる長い影。柳は水辺だったから、周りには誰もいなかった。私は確かにひとりだった。
影はいつも同じような輪郭をしていた。頭の部分が丸く、肩があって、足に向かって細くなる。誰かが立っている影の形。
それが、私なのか、それとも別の何かなのか、その時点ではまだ判断できなかった。
翌日、改めて全部の写真を見返した。
百七十三枚撮っていた。そのうち、影が写り込んでいるものが三十一枚あった。
数えながら、少し手が冷たくなった。三十一というのは多すぎる。光の加減や偶然の産物で片付けるにはあまりにも繰り返されていて、しかも影の形が毎回よく似ていた。
いくつかの写真を拡大して確認した。影の落ち方の角度と、実際の太陽の位置がおかしい写真があった。旅行中に撮った時刻のデータも残っていたから、その時間帯の太陽の方角をあとから調べてみたのだけれど、影が伸びている向きが、太陽の位置と一致しないものが何枚かあった。
それが一番怖かった。
光源がないのに、影だけがある。
そのことを、職場の元同期だったカナさんに話した。カナさんは霊感があるとか言っていたわけじゃないけれど、こういう話を笑わずに聞いてくれる人だった。写真を何枚か見せると、カナさんはしばらく黙ってスマートフォンの画面を見ていた。
「これ、影だけだね」と彼女は言った。「人がいない」
私も同じことに気づいていたけれど、改めて言葉にされると、じわっとした。影は確かに「誰かが立っている」という形をしていた。でもその影を作っているはずの人間が、写真のどこにもいない。
カナさんが「このとき、誰かとすれ違ったりした記憶ある?」と聞いてきた。
覚えていない、と私は答えた。正確には、覚えていないというより、その場の記憶が妙にぼんやりしている。旅全体の記憶はあるのに、影が写っている写真を撮った瞬間の記憶だけが、なぜかうまく掘り起こせなかった。
「写真、日付と時刻は正しい?」
スマートフォンの設定を確認した。自動で現在地の時刻に合わせていたし、おかしなところはなかった。でもカナさんは「時刻じゃなくて、撮った順番」と言った。
写真アプリで撮影順に並べ直して確認すると、影が写っている写真は、バラバラのタイミングに分布していた。旅の最初のほうから最後のほうまで、均等に近いくらいの間隔で混じっていた。
「ずっとそこにいたってこと?」とカナさんが小声で言った。
私は何も答えられなかった。
その夜、ひとつ気になることを思い出した。
旅の二日目の夕方、宿に戻る途中の細い路地で、私は一度だけ立ち止まって、振り返ったことがあった。特に理由はなかった。なんとなく、視線のようなものを感じた気がして。
振り返っても誰もいなかった。路地には私しかいなかった。
その直後に撮った写真が一枚ある。宿の入り口を撮ったもの。そこにも影があった。
宿の格子戸の前の地面に、細長い影がひとつ。建物の壁に沿って斜めに伸びている。私が撮影していた位置から考えると、影はほぼ私の真横あたりから伸びているように見えた。
私の隣に、誰かが立っていたような影の位置だった。
それを見て、急に思い出したことがある。
その路地で振り返ったとき、誰もいなかった。それは確かなのだけれど、空気がひどく冷たかったのを覚えている。夕方とはいえ、その季節にしては不自然なくらいひんやりした空気が、ほんの一瞬だけ、顔の横をすり抜けていった気がした。
風だと思っていた。でも、路地には風が通るような開口部がなかった。
写真を見ながら、自分の旅の記憶をひとつずつ確かめようとすると、影が写っているタイミングだけ、なぜか映像がかすれる。何を見て、どこに足を向けていたか、ぼんやりとしかわからない。まるで誰かが私の隣に立っていた時間だけ、記憶の解像度が落ちているみたいだった。
そこまで考えて、私はあることに気づいた。
影が写っていない写真では、私自身が写っているものがいくつかある。自撮りや、通りかかった人に頼んで撮ってもらったもの。そういう写真には、影の写り込みがほとんどない。
逆に言うと、影が写っている写真では、私は写っていない。
撮影者として、カメラの後ろ側にいるから当然といえば当然なのだけれど、影の位置を改めて確認すると、どの写真でも影は「カメラを持っている私の位置」ではなく、「私の少し隣や背後」から伸びていた。
私が撮っている。その隣に何かが立っている。そしてその何かだけが影を落としている。
そんな解釈が、頭から離れなくなった。
旅から半年ほど経ったいま、あの写真はまだスマートフォンの中にある。削除しようとしたことが一度あった。でも、指が止まった。
怖いから残しているわけではない。ただ、削除することで何かが確定してしまう気がして、それが何なのかまだわからないから、消せないでいる。
先月、知人から偶然あの宿場町の話題が出た。県境に近い古い町で、昔から「連れが増える」という言い伝えがあるらしい。旅人に土地のものが興味を持って、一緒についてくる、という話だ。
帰れなくなった旅人の名残だという人もいるし、土地そのものの記憶が人の形をとるのだという人もいる。知人はただの民間伝承として話していたけれど、私はその話を聞きながら、あの写真の影を思い出していた。
ひとつ確かなのは、私は一人旅をしていたつもりだったけれど、写真を見る限り、あの三日間、私はひとりではなかったかもしれないということだ。
それが何だったのかは、今もわからない。
でも、あの旅以来、私は旅先で振り返ることができなくなった。視線を感じても、足を止めても、絶対に振り返れない。
振り返ったら、見えてしまう気がするから。
写真の中にしか映らないはずのものが、そこに立っているのが。


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