誰も知らないはずの、あの同僚のこと

転職して半年、職場に「いるはずのない同僚」の存在に気づいた男の記録。誰も彼のことを覚えていないのに、確かに一緒に仕事をしていた。

これを書いているのは、あの一件からちょうど一年が経った頃だ。書いておかないと、自分でも何が本当だったのか、わからなくなりそうで。

僕が今の会社に転職したのは、三十二歳のときだった。県境の町にある、物流関係の中小企業で、社員は全部で四十人ほどの規模だ。前職でかなり消耗していたから、とにかく静かに働きたい、それだけを考えて選んだ職場だった。

最初の一ヶ月は覚えることが多くて、正直まわりの顔と名前を一致させるのに精一杯だった。それでも三ヶ月ほど経つと、同じフロアの人間の顔ぐらいは全員わかるようになってきた。

桐島さん、というのがいた。

いや、「いた」と書くのが正しいのかどうか、それ自体がもうよくわからないのだが、とにかく僕には、桐島さんという同僚がいると認識していた。

三十代半ばくらいの男性で、背はそれほど高くなく、いつも薄いグレーのカーディガンを着ていた。席は僕の斜め前、島を挟んだ向こう側だった。話し方は穏やかで、業務の引き継ぎについて質問したとき、丁寧に教えてくれた記憶がある。昼休みに給湯室で二、三度、世間話をしたこともある。雨が続く季節の話だったか、近くの定食屋の話だったか、そういう他愛のない会話だった。

僕の中で、桐島さんは「仕事がしやすい、感じのいい先輩」として定着していた。特別に親しいわけではないが、いなくなると困るような、そういう存在だった。

異変に気づいたのは、転職してちょうど五ヶ月目に入った頃だった。

その日、部内で小さな歓迎会があった。同じ月に入ってきた中途採用の女性のために、近くの居酒屋を借り切って、三十人ほどが集まるやつだ。僕はそういった席が得意ではないけれど、断るほどの理由もなくて、端のほうで大人しくしていた。

宴会もそろそろお開きという雰囲気になったとき、隣に座っていた同期の久保田が、ふと言った。

「そういえばさ、今日って全員来てんの?」

誰かが座席表を見て、「何人か来てないよ」と答えた。久保田がその紙を覗き込んで、「桐島さんは?」と聞いた。僕はそのとき、ごく自然に「ああ、桐島さんも来てないね」と思ったのだが、その場の誰も、特に反応しなかった。

少し間があって、久保田が「桐島って誰?」と言った。

僕は一瞬、耳を疑った。「え、斜め前に座ってる人でしょ、グレーのカーディガンの」と言うと、久保田は首をかしげて、「斜め前って、あの島?田中さんの席のあたり?」と言う。

そうだ、田中さんの席の向かい側あたりだ、と僕は答えた。久保田はしばらく考えてから、「そこって空席じゃなかったっけ」と言った。

おかしいな、と思いながらも、そのときは酔いのせいか笑ってごまかしてしまった。座席表を確認すればよかったのだが、そういう機会を逃してしまった。

翌朝、出社してすぐに、僕はそっとフロアの席を確認した。

確かに、斜め前の一角に桐島さんの姿はなかった。だが、それはただ「今日はいない」というだけで、席そのものはあるはずだと思っていた。ところが、じっくり見ると、その島の配置が、僕の記憶と微妙に違う気がした。席数が、一つ少ないように感じた。

気のせいかもしれない。

でも、それからというもの、気になって仕方なくて、昼休みに総務の女性に「席の配置って最近変わりましたか?」とさりげなく聞いた。彼女は「変わってないですよ、ずっとこのままです」と笑って答えた。

その後、もう少し踏み込んで「桐島さんって方、うちにいましたっけ」と聞いた。彼女はすぐに答えなかった。少しだけ間があって、「桐島……?」と繰り返して、「ちょっとわからないですね、誰かと聞き違えじゃないですか?」と言った。不思議なことに、嘘をついている感じは全くなかった。本当に思い当たらない、という顔だった。

僕はその夜、家に帰ってから手帳を開いた。業務メモを書くときに使う、ちょっとした備忘録みたいなものだ。桐島さんから引き継ぎを受けたとき、何か書き留めたはずだと思って探したのだが、その部分だけ、妙なことになっていた。

書いてあるのだ。ちゃんと文字が並んでいる。だが、固有名詞の部分だけが読めない。インクが滲んでいるわけでも、消えているわけでもなく、字としての形はあるのに、何故か認識できないのだ。自分で書いた字のはずなのに、まるで別の言語で書かれているような、奇妙な感覚があった。

しばらくしてから、ひとつ思いついたことがあった。入社したときに全員で撮った集合写真が、社内報に載っていたはずだった。デスクの引き出しの奥に冊子を見つけて、入社当月のページを開いた。

写真はある。僕も映っている。

桐島さんも、いるような気がした。いや、正確に言うと、その写真の端のほうに、薄いグレーのカーディガンを着た人間が映り込んでいる。だが、顔のあたりが妙にぼやけていて、他の人と違って、名前の記載がない。下に添えられたキャプションの名前の列に、その人物に対応するはずの欄が、ぽっかり空いている。

印刷ミスかもしれない。そう思おうとした。

だが、その後も気になることは続いた。ある日の昼休み、給湯室でコーヒーを淹れていたとき、棚の上にマグカップが一列に並んでいるのが目に入った。社員が各自で持ち込んでいるやつで、名前が書いてあるものが多い。

そのなかに一つ、見覚えのある形のカップがあった。濃い青色で、少し欠けているやつ。桐島さんが使っていた、という記憶が、なぜかはっきりとある。

そのカップの底に、マスキングテープで貼られた名前を確認した。

「木」という文字だけ読めて、あとは滲んでいた。

誰のものかを確認しようと思ったけれど、結局聞けなかった。翌日確認しに行ったら、そのカップは棚から消えていた。

あれからずっと、僕は桐島さんのことを、誰にも聞けないままでいる。もしかしたら本当に、自分の記憶が混乱しているだけかもしれない。転職したてで疲れていて、誰か別の人を、存在しない名前と結びつけて記憶していた、という可能性も否定できない。

ただ、ひとつだけ、どうしても説明のつかないことがある。

先月、僕は業務用のメールを整理していた。転職して最初の数ヶ月のものを、フォルダに振り分けていたときのことだ。送受信の一覧をスクロールしていたら、一通だけ、差出人のところが空白になっているメールがあった。

件名は「引き継ぎについて」。

本文を開くと、業務の流れが丁寧に、箇条書きで説明されていた。内容に見覚えがあった。確かに、この通りに業務を教わった。この情報をもとに仕事を覚えた、という感覚がある。

差出人の欄は、どこまでスクロールしても空欄だった。送信日時は、僕が入社して三週間目の、火曜日の午後だった。

返信の履歴を辿ると、僕もそのメールに返事を送っていた。「ありがとうございます、確認しました」という一文だけ。

宛先の欄には、何も書かれていない。

誰に送ったのか、わからない。

そのメールの存在を、今でも確認できる。でも、送った相手を確認する方法が、何もない。

桐島さんが本当にいたのか、最初からいなかったのか、僕にはもうわからない。ただ、フロアの斜め前の席のあたりを見るとき、今でもたまに、誰かがそこにいるような気がして、視線を向けることができなくなる。

それだけは、本当の話だ。

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