一人暮らしを始めて半年、飼い猫のムギがある日から部屋の同じ場所を凝視するようになった。最初は「猫あるある」だと笑っていたのに、気づいたころには笑えなくなっていた。
猫を飼ったことがある人ならわかると思うけど、猫って突然、何もない壁とか空間をじっと見つめることがある。専門家に言わせると「猫には人間より視野が広いから、虫の動きや光の屈折を見ているだけ」とか、「耳に聞こえない高周波の音に反応している」とか、そういう説明になるらしい。だから最初、わたしも全然気にしていなかった。
うちの猫の名前はムギ。もらい猫で、当時は三歳くらいのキジトラだった。穏やかで鳴かない子で、知らない人が来ても逃げないくらい人懐っこかった。わたしが県境の町に引っ越して一人暮らしを始めたのは、仕事の都合で二十六のときで、ムギはそのとき一緒に連れてきた。
アパートは築十五年くらいの、2DKの間取りで、特別古いわけでも変わった雰囲気があるわけでもなかった。駅からは少し遠くて、スーパーまで歩いて十分くらいかかるような場所だった。静かで、悪くない物件だと思っていた。
ムギが「それ」をし始めたのは、引っ越してから二ヶ月くらい経ったころだったと思う。
最初に気づいたのは、夜の十時を過ぎたころだった。仕事から帰ってきてシャワーを浴びて、リビングのソファでスマホをいじっていたら、ムギがいつもと違う場所に座っているのに気がついた。ムギはいつも、わたしがソファにいるときは隣に来るか、ソファの背もたれの上に乗っているかなんだけど、その夜はキッチンとリビングのあいだの、廊下みたいになっている短い通路のあたりに座って、壁の一点をじっと見ていた。
尻尾も動かさず、耳もぴったり前に向けたまま、微動だにしなかった。
「ムギ?」
声をかけると振り向いた。そして何事もなかったようにわたしのところに来て、膝の上に乗ってきた。その夜はそれで終わった。
でも次の日も、また同じ場所に座っていた。
場所は全く同じだった。廊下の突き当たり、玄関と洗面所に挟まれた、壁しかない角のあたり。わたしが料理をしながら気づいたときには、もうかなり長い時間そうしていたんだと思う。背中が少し丸まって、体を低くして、何かを品定めするように首をゆっくり傾けていた。
「幽霊見えてるの〜」なんて笑いながら声をかけて、ムギは来たけど、その日の夜も同じ場所に戻って同じようにしていた。
最初の一週間は「猫ってやっぱり変だよね」くらいにしか思っていなかった。むしろちょっとおもしろくて、友達にLINEで動画を送ったりもした。返ってくるのは「かわいい」とか「うちの犬もやる」とか、そんな反応で、わたしも同じ温度感でいた。
変だと思い始めたのは、三週間ほど経ったころだった。
ムギがその場所を見つめる時間が、どんどん長くなっていった。最初は夜だけだったのが、朝も、昼も、気がつけばあの角の前に座っている。ご飯のときだけはそこから離れるけど、食べ終わるとまた戻る。トイレも行くけど、終わるとまた戻る。ソファに来る時間が目に見えて減っていた。
気になって、わたしもその場所をじっくり見てみた。壁は普通のクリーム色の壁で、シミも汚れもなかった。床もフローリングで、特に何か落ちているわけじゃない。角に小さな傷があるくらいで、それ以上何もなかった。音がするのかと思って耳を澄ましても、隣の部屋の生活音も聞こえないくらい静かだった。
あの角だけ、なんとなく空気が違う気がしたのは、気のせいだったと思う。思いたかった。
一ヶ月が経ったころには、ムギの食欲が少し落ちていた。動物病院に連れて行ったら、「特に異常はない」と言われた。ストレスの可能性もあるから、環境に変化があったなら様子を見てほしい、と。一人暮らしで引っ越してきたこと、ムギにとっても慣れない場所だということを伝えたら、「それかもしれません」と言われて終わった。
帰りの車の中で、ふと思った。ムギがあの場所を見るようになったのって、引っ越してすぐじゃなくて、二ヶ月くらい経ってからだったよな、と。
それまでは普通にしていた。何が変わったんだろう。
その夜、もう一度あの角を見た。今度はムギのいる位置から同じ視線で見てみようとして、床に座り込んでみた。ムギがいつも座る位置から、ムギの視線の高さで見てみると、何かが変わって見えるかと思ったけど、やっぱり壁しかなかった。
ただ、そのとき気づいたことが一つあった。
壁の、ちょうどムギが視線を向けているあたりに、ほんの薄く、縦長の形で色が違う部分があった。塗り直したのか、もともとそういう模様なのか、よほど近くで見なければわからないくらいの違いだったけど、確かにそこだけ、壁紙の色がわずかに違っていた。
長さにして、一メートル七、八十くらい。幅は三十センチもないくらい。人が一人、細くなれば収まるような形だった。
それから少し経って、わたしは不動産屋に電話をした。この部屋の前の入居者がどんな人だったか聞けないか、と。もちろん個人情報だから教えてもらえなかったけど、担当の人がちょっと間を置いて、「何かありましたか」と聞いてきた。なんとなく、その「間」が気になった。
「猫が同じ場所ばかり見ていて」と言うと、「ああ」という声が返ってきた。驚いた感じじゃなくて、「やっぱり」みたいな声だった。
「以前の方も、猫を飼っていたんですよ」
それだけ言って、担当の人は話を切り替えた。それ以上は何も言わなかった。
以前の入居者が猫を飼っていたなら、猫の匂いが残っていてムギが反応しているということもあるかもしれない。それは一応、合理的な説明にはなる。でも、匂いに反応するとして、あんなにじっと一点を見続けるものだろうか。それも、壁の一点を。
その夜から、わたしは意識してあの角を見ないようにした。ムギが見ているのも、なるべく見ないようにした。おかしな話だとわかっているけど、なんとなく、「向こうも見ている」というような感覚が拭えなくなっていた。わたしがそっちを見るたびに、見られているような気がした。
ただの壁なのに。
それから二週間くらいのある夜、珍しくムギがソファに来た。久しぶりのことで少し嬉しくて、背中を撫でていたら、ムギがまたあの方向を見た。ソファの上から、廊下のあの角を見た。
そのとき初めて、ムギがあの角を見ながら低く唸っているのに気がついた。喉の奥で、かすかに。これまで一度も聞いたことがない声だった。
わたしはそっちを見なかった。ムギの背中を撫でながら、ただそっちを見なかった。
翌朝、何も変わらない部屋で目が覚めた。ムギは洗面所の前に座って毛づくろいをしていた。あの角は見ていなかった。
それから少しずつ、ムギがあの場所を見る時間は減っていった。今でも週に一度か二度、ふとあの角の前に座っていることがある。でも唸ることはなくなった。
わたしはいまもこの部屋に住んでいる。
あの壁の、縦長の塗り直し跡みたいな部分は、今でもそこにある。気が向いたときに確認してしまうのは、よくない癖だとわかっている。
不動産屋の担当が言った「以前の方も猫を飼っていた」という言葉の、あのわずかな間。あの言い方が、ときどき頭をよぎる。
前の入居者がどんな人で、なぜ引っ越していったのか、そもそも引っ越していったのかどうか、わたしは何も知らない。猫がどうなったのかも知らない。
ただムギは今日も、あの角の前に、たまに座っている。


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