引っ越したばかりのアパートで、毎晩決まった時間に天井を歩く足音がした。最初は一人分だったそれが、夜を重ねるごとに確実に増えていった。
あの部屋に住んでいたのは、トータルで三ヶ月にも満たなかったと思う。それほど短い期間だったのに、あのときのことは今でも細部まで妙にはっきりと覚えている。嫌な記憶というのは、どうしてこう鮮明に残るのだろう。
転職が決まって、勤め先の最寄り駅から二駅ほど離れた場所にアパートを借りたのは、三月の終わりごろのことだった。築年数はそれなりに経っていたが、リフォームが入っていて内装は綺麗だったし、日当たりも悪くなかった。駅から少し歩くぶん家賃が抑えられていて、独り暮らしには十分な広さの1LDKだった。不動産屋の担当者も感じのいい人で、特に不審な点は何もなかった。強いて言えば、前の入居者がいつ出たのかを聞いたとき、担当者がほんの一瞬だけ間を置いてから「半年ほど前ですね」と答えた、その間がわずかに気になったくらいだ。でも当時の俺はそれを気にするほど繊細じゃなかったし、安い部屋には似たような事情がつきものだとも思っていた。
最初の一週間は何もなかった。
引っ越しの荷解きをして、近所のスーパーを探して、新しい職場に慣れようと必死で、そんなことに気を回す余裕もなかった。部屋は普通に静かで、上の階の生活音が少しするくらいで、むしろ前に住んでいた繁華街近くの物件より落ち着いていると感じていたくらいだ。
最初に気がついたのは、入居してから八日目の夜だった。
仕事から帰ってきて、シャワーを浴びて、ソファに寝転んでスマートフォンをいじっていた。時刻は確か午前零時を少し過ぎたあたりだったと思う。そのとき、天井の、ちょうど頭の上あたりから、足音がした。
トン、トン、トン。
三歩分、はっきりと聞こえた。上の階の住人が夜中に歩いているのだろうと思った。別段おかしくもない。ただその足音が、廊下を横切るような流れのある音ではなくて、一か所に止まって、三歩踏んで、それで終わりという感じだったのが少し引っかかった。でもその夜はそれだけで、すぐ眠れた。
翌日の夜、また同じ時間に、同じ場所で音がした。
トン、トン、トン。
また三歩だった。時刻を確認すると、零時十七分だった。前の夜と数分しか変わらない。そのときはじめて、これはちょっと変かもしれないと思った。人が歩く音というのは、もう少し前後に続くものだ。キッチンへ向かうとか、トイレへ行くとか、何らかの動線の一部として聞こえる。でもこれは違う。三歩踏んで、止まる。それだけなのだ。
三日目の夜、また零時十五分ごろに音がした。そして俺は、スマートフォンを手にしたままぼんやりとそれを聞いて、数を数えた。
トン、トン、トン、トン。
四歩だった。昨日より一歩、増えていた。
さすがにそれはおかしいと思って、次の日に管理会社へ電話した。上の階の住人について、夜中に何か音がするので確認してもらえないかと伝えた。電話口の担当者は丁寧に対応してくれて、確認して折り返すと言った。数時間後にかかってきた折り返しで、担当者はやや歯切れ悪そうにこう言った。「上のお部屋は現在、空室になっております」。
空室。
俺は少しの間、黙っていた。空室であれば音が出るはずがない。担当者も、念のため鍵を開けて確認しますと言ってくれて、翌日の昼間に見に行ったという。結果は異常なし。人が入った形跡もなく、ネズミや鳥が入り込んだ様子もない。建物の構造上の音かもしれないので、また何かあればご連絡をと言われて、電話は終わった。
その夜も音はした。零時十三分。五歩だった。
俺はそこから毎晩、音の数をメモするようになった。変な話だが、数えずにはいられなかった。記録しておけば何かわかるかもしれないという気持ちと、ただ恐怖を先送りにするための行動でもあったと思う。
六歩、七歩、八歩。
日を追うごとに、確実に一歩ずつ増えていった。音のする時間はいつも零時前後でほぼ固定されていて、場所も変わらなかった。ただ歩数だけが、夜ごとに一つずつ増えていく。それだけだった。だがその「それだけ」が、じわじわと俺の神経を削っていった。
二週間が経つころには、音は十四歩になっていた。
音の性質自体は最初から変わらなかった。一定のリズムで、一歩ずつ、同じ場所を、ただ踏んでいく。走るわけでもなく、引きずるわけでもなく、ただ、トン、トン、と。俺はあるとき、その音を聞きながら、これは「数えている」んじゃないかという感覚を覚えた。歩いているのではなく、何かを数えている。何を、とは言えない。ただそういう感触が、肌にまとわりついて離れなかった。
十七歩になった夜に、初めて誰かに話した。職場の同僚で、オカルト系の話が好きな奴がいて、そいつにだけ打ち明けた。そいつは最初は面白がって聞いていたが、歩数が毎晩増えていくという部分で少し顔が変わった。「上の部屋が空室なのに?」と確認してきて、俺が頷くと、しばらく黙ってから「早めに出たほうがいいんじゃないか」と言った。根拠があって言ったわけじゃないと思う。ただ、そう感じたんだろう。
俺もそう思っていた。でも動き出せなかった。次の部屋を探す時間もなかったし、引っ越しにかかる費用のことを考えると、体が鈍くなった。それに、どこか頭の中に、まだ見届けていないという気持ちもあった。足音はどこまで増えていくのか。何かが起きるとしたら、それはいつなのか。
二十二歩になった夜のことだった。
俺はいつも通りソファに座って、零時を待っていた。その夜は少し早く、零時七分ごろに音が始まった。トン、トン、と一歩ずつ数えながら聞いていた。二十二歩目を過ぎた。二十三歩、二十四歩、まだ続いている。この夜だけは一歩しか増えないはずなのに、二十五歩、二十六歩、音は止まらなかった。
俺は息をのんで天井を見上げた。
三十歩を超えたあたりで、ようやく音が止んだ。そして数秒の沈黙のあと、今度は別の場所から音がした。天井の、部屋の端のほうだ。今まで一度も音がしたことのなかった場所から、別の足音が始まった。
トン、トン、トン。三歩。
最初の夜と同じ歩数だった。
俺はそのとき、はじめて本当に怖くなった。それまでは怖いながらも、どこか観察者の気持ちでいた。でもこの瞬間、観察できる側ではなくなったような気がした。音が増えたのではなく、音を出す「何か」が増えたのだと、皮膚でわかった。
翌日、俺は有給を取って不動産屋へ行き、解約の手続きをした。違約金のことも聞かれたが、正直もうどうでも良かった。担当者はそのとき、俺の顔を見て「何かありましたか」と聞いてきた。俺は少し迷ってから「天井から音がしていた」とだけ答えた。担当者はまた、あの一瞬の間を置いてから「そうですか」と言った。驚いた様子ではなかった。驚いていなかった。
俺はそれ以上何も聞かなかった。たぶん、聞いてはいけない気がした。
荷物をまとめて、友人の家に数日置いてもらって、急いで次の部屋を見つけた。今はその部屋に住んでいる。天井からの音は、今の部屋ではしない。
ただ、一つだけ気になっていることがある。
あの部屋を出た夜、友人の家で寝ていたとき、夢を見た。暗い、がらんとした部屋が出てきた。天井が高くて、何もない部屋だった。そこで誰かが何かを数えていた。数字は聞き取れなかったけれど、確かに数えていた。目が覚めたとき、俺は自分がどこにいるのか、一瞬わからなかった。
そしてスマートフォンを確認したら、時刻は零時十四分だった。
あの部屋で最初に音を聞いた夜と、ほとんど同じ時間だった。
それが何を意味するのか、今もわからないままでいる。


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