毎回あの席にいた、名前も知らない人の話

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地元の小さな喫茶店に通い続けた数ヶ月、いつも同じ席に座る常連客がいた。名前も素性も知らないまま、ある日ふとその存在に疑問を抱いたとき、何かが静かに崩れ始めた。

その喫茶店に通い始めたのは、去年の春ごろのことだった。

仕事が変わって、新しい職場まで電車で三十分ほどかかるようになった。乗り換えの駅の近くに、古びた商店街があって、その突き当りに小さな喫茶店が一軒あった。チェーン店じゃなく、看板もほとんど色が褪せていて、店名が読めるかどうかギリギリのような、そういう店だった。「さくら珈琲」と書いてあったと思う。でも桜の季節に行っても、桜に関係したものは何もなかった。

最初に入ったのは、雨の日だった。傘を忘れて、雨宿りのつもりで飛び込んだだけだった。狭い店内に、テーブルが五つか六つ。カウンターに三席。マスターと思われる六十代くらいの男性が一人で切り盛りしていて、注文を取りにくるときも何も喋らなかった。メニューを差し出して、指で示せばそれで通じた。そういう店だった。

コーヒーが思いのほか美味しくて、それからちょくちょく寄るようになった。週に二、三回。出勤前の朝か、仕事帰りの夕方か。座る場所はだいたい決まっていて、入り口から見て左奥の窓際の二人席だった。日が当たって、商店街の人通りが見えて、ぼんやりするのにちょうどよかった。

その人に気づいたのは、通い始めて一ヶ月くらい経ったころだった。

カウンターの一番端、壁際の席。いつもそこにいる人がいた。五十代か六十代か、もう少し上か。判断がつきにくい年齢の男性で、白いカッターシャツを着ていることが多かった。季節を問わず、ほぼ同じような格好をしていた気がする。コーヒーを一杯頼んで、テーブルに両手を置いて、ただじっとしている。本を読むわけでも、スマホを見るわけでも、誰かと話すわけでもない。ただ、そこにいる。

最初はそんなに気にしていなかった。喫茶店の常連なんてそういうものだろうと思っていたし、私だって人のことを言えるほど普通の客じゃないとわかっていた。でも、気にし始めると止まらなくなる。

私が行くたびに、あの人がいる。

朝に行っても、夕方に行っても、あの席にいる。一度だけ、昼すぎに用事が早く終わって寄ったことがあったけど、そのときもいた。コーヒーの量が減っていたから、しばらくいたのだろうとは思う。でも何時間いるのか、何時に来て何時に帰るのか、私には全然わからなかった。

マスターに聞いてみようと思ったこともあった。でもあの人は本当に喋らない人で、私も元来そういう雑談が苦手なので、結局聞けずじまいだった。

気になりながらも、夏が過ぎた。

秋になって、少し店に行く頻度が落ちた時期があった。仕事が忙しくなって、乗り換えの駅を通る余裕もなかった。二週間くらい行かなかったと思う。久しぶりに店に入って、席についてコーヒーを頼んで、ふとカウンターの端を見た。

いた。

当たり前のようにいた。白いシャツ。両手をテーブルに置いて、前を向いている。二週間ぶりに来た私にとってはひさしぶりでも、あの人にとっては何も変わらない時間が流れていたみたいだった。

そのときはじめて、少し変だと思った。

仕事帰りに仲のいい同僚に話したら、「常連ってそういうもんじゃない?毎日行く場所がある人って、別に珍しくないよ」と言われた。確かにそうだ。私が気にしすぎているだけかもしれない。そう思って、しばらくまた通い続けた。

でも十月の終わりに、ちょっと気になることがあった。

その日は夕方に寄って、窓際の席でコーヒーを飲んでいた。店内には私と、カウンターのあの男性と、あと若い女の子が一人いた。女の子はカウンターから二席ほど離れたところに座っていて、イヤホンをして、何かを読んでいた。

女の子がふと顔を上げて、カウンターの端の方向を見た。そしてまた下を向いた。それだけのことだった。でも私はそのとき、何かが引っかかった。

女の子が見た方向に、あの男性はいた。いつもと同じ席に、いつもと同じ姿勢で。でも女の子の視線が、なんというか、あの人の「少し手前」で止まっているように見えた。横を通り過ぎた、みたいな目の動きだった。気のせいかもしれない。でも私には、女の子が「あそこには何もない」という顔で前を向き直したように見えた。

そのあとすぐ、女の子は荷物をまとめて出ていった。

私はしばらく残って、コーヒーをもう一杯頼んだ。店内は私と、マスターと、あの男性だけになった。静かだった。外が暗くなってきて、窓に店内の様子が反射し始めた。

窓に、私が映っていた。マスターが映っていた。でも、カウンターの端の席は、窓に映っていなかった。

正確に言うと、その席自体は映っていた。椅子も、テーブルも。でも人の姿が見えなかった。見えなかったというより、そこだけ少し暗かった、という感じに近い。

慌てて振り向いた。あの男性は、いた。ちゃんといた。白いシャツで、前を向いて、両手をテーブルに置いていた。

もう一度窓を見た。やっぱりその席だけが、うまく映っていない。

蛍光灯の角度の問題かもしれない、と思った。窓の汚れかもしれない。そう思いながら、私は急いで会計を済ませて店を出た。振り返らなかった。

それからしばらく、店に行けなかった。怖いというより、何かを確認してしまうのが嫌だった。

十一月の中ごろ、思い切って行ってみた。朝の時間帯を選んだ。

入った瞬間、カウンターの端を見た。

誰もいなかった。

あの席が空いているのを見たのは初めてだった。正直ほっとした。でも注文をしてしばらくしてから、なんとなくマスターに話しかけてみた。「カウンターによく座ってる方、最近見ないですね」と。我ながら曖昧な言い方だった。

マスターは少し間を置いてから、言った。

「ああ。あの方は、もう来ませんよ」

それだけだった。理由を言わなかったし、私も聞けなかった。マスターの顔が、少しだけ固くなったように見えた気がした。

その日はコーヒーを飲んで、普通に帰った。

ただ帰り道にずっと、一つのことが頭から離れなかった。「もう来ません」という言い方だった。引越しでも、飽きたでも、体を壊したでもなく、ただ「もう来ません」と言った。

そしてもう一つ。私があの男性を最初に見たのは、春に通い始めてから一ヶ月後だった。でも考えてみると、マスターは私が初めて入ったときから、私のことを特に驚かずに迎えてくれていた。常連でも何でもない見知らぬ客が入ってきたのに、ごく自然に。

あの頃から、私の席だった窓際のテーブルには、いつもコップに水が用意されていた。注文する前から。そういう店なのかと思っていたけれど、一度だけ私より先に別の客が入っていたとき、その人の席には最初、水が置かれていなかったのを思い出した。

なぜ私の席だけ、最初から用意されていたんだろう。

今もあの喫茶店には通っている。カウンターの端の席は、あれ以来ずっと空いている。マスターは相変わらず無口で、私はいつもの窓際の席に座る。特に何も起きていない。

ただ先週、席に着いたとき、マスターが何かを言った。めったに喋らない人なので、びっくりして「え?」と聞き返した。もう一度言ってもらった。

「一人ですか」

そう聞かれた。

私は一人で来たし、いつも一人だ。だから「はい」と答えた。でもマスターは、なぜかもう一度、カウンターの端の席の方を見てから、「そうですか」とだけ言って、厨房に戻った。

あの席には、誰もいなかった。

私には、誰も見えなかった。

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