これはフィクションです。会社のフリーアドレスオフィスで、毎朝必ず自分の隣に座ってくる同僚に気づいた男が、その人物の正体を追ううちに奇妙な矛盾に突き当たる話です。日常の中に静かに溶け込んだ違和感が、少しずつ輪郭を帯びていきます。
うちの会社がフリーアドレス制に切り替わったのは、三年ほど前のことだ。固定席を廃止して、毎日好きな席に座っていいというやつで、最初は少し戸惑ったが、慣れてしまえば特に不便もなかった。俺はだいたい窓際の列、奥から二番目のあたりに座ることが多かった。光の入り具合がちょうど良くて、空調の風も直撃しない。気に入っていた場所だった。
その人に気づいたのは、制度が変わってから半年ほど経った頃だったと思う。
最初は単なる偶然だと思っていた。朝、出社して荷物を置くと、しばらくして隣の席に誰かが座ってくる。それだけの話だ。フリーアドレスなんだから、誰がどこに座っても構わない。俺がいつも同じ場所を選んでいるのだから、隣に誰かが座ることだって当然ある。
ただ、それが毎日続くと、さすがに気になってくる。
名前は確か、中崎さんといった。三十代後半くらいの男で、別の部署の人間だった。顔は知っていたが、直接話したことはほとんどなかった。廊下ですれ違えば会釈するくらいの、そういう間柄だ。
その中崎さんが、ほぼ毎朝、俺の隣に座ってくる。
正確に言えば、俺が席を取ってから三十分以内には必ず隣にいる、という感じだった。先に来て座っているわけではなく、俺が来た後に来る。だからといって俺の到着を待っているわけでもないだろうとは思っていた。フリーアドレスのオフィスは広い。選べる席は五十以上ある。それでも隣を選ぶ。
一週間は様子を見た。二週間経っても変わらなかった。
三週間目に、一度だけ別の席に座ってみた。エレベーターに近い、普段とはまったく別のエリアだ。その日の昼過ぎに何気なくオフィスを見渡すと、中崎さんはいつもの窓際に座っていた。俺がいない、俺の隣だった席に。
それを見たとき、なんとなく気味が悪いとは思ったが、まだそれほど深刻には受け止めていなかった。
同僚の田端に話したのは、その頃だったと思う。田端は俺と同い年で、入社同期だ。話しやすい相手だったから、半分冗談のつもりで「中崎さんって、いつも俺の隣に座ってくるんだよな」と言った。
田端は少し首を傾げた。
「中崎さん?」
「ほら、あの人。経理の隣の、なんていう部署だっけ。管理系の人」
田端はしばらく考えてから、「ああ」と言った。でも、その「ああ」がなんとなく腑に落ちない感じだった。
「最近見かけないよな、あの人」
そう言われて、俺は一瞬止まった。
「え、毎日いるだろ。俺の隣に」
「そう?気のせいじゃないか。俺、最近全然見てないけど」
田端の席は俺からそれほど遠くない。見えないはずがないのだが、まあ人それぞれ見ているものが違うのかもしれない、とその時は思った。
ただ、田端の言葉が引っかかって、俺は少し中崎さんのことを意識するようになった。名前を確認しようとして、社内ポータルで検索してみた。中崎、という名前で絞ると、何人かヒットする。顔写真つきのページを見ていくと、俺が隣に座ってくると思っていた人物に近い顔があった。中崎誠、管理部門所属、とある。
ただ、そのページには、異動履歴の欄に一行だけ記載があった。「現在、長期休業中」。
長期休業。病気なのか、家庭の事情なのか、社内ではそういうことをあまり詮索しないから、それ以上は分からなかった。でも、休業中の人間がなぜ毎朝出社しているのか。
翌朝、俺はいつもより少し早く来て、いつもの席に座り、隣を注意して見ることにした。
八時半を過ぎた頃、中崎さんは来た。荷物を持って、静かに隣の椅子を引いて座る。特に俺に声をかけるわけでもなく、ノートパソコンを開いて、何か作業を始める様子だった。
俺は思い切って声をかけた。
「中崎さん、お疲れ様です」
中崎さんは顔を上げた。目が合った。穏やかな表情だった。
「あ、お疲れ様です」
それだけ言って、また画面に視線を戻した。普通の反応だった。俺がおかしいのか、と思い始めた。長期休業といっても、種類によっては出社することもあるのかもしれない。考えすぎだ、と自分に言い聞かせた。
その日の午後、用事があって管理部門のフロアに行く機会があった。担当者と話しながら、ふと、顔見知りの女性社員に声をかけた。確か管理の人だったはずで、中崎さんのことを知っているかもしれないと思ったからだ。
「あの、中崎さんって最近どうされてます?今日も見かけたんですが」
その人は、一瞬だけ表情が固まった。
「中崎さん……」
「ええ、管理部門の、中崎誠さん」
「あの方は」と彼女は言いかけて、それから少し声を落とした。「去年の秋に、亡くなられましたよ」
俺は何も言えなかった。
「ご存じなかったですか。社内にはあまり知らせなかったので。ご本人の希望もあって、静かに……」
それ以上聞けなかった。軽く会釈して、そのフロアを出た。
廊下を歩きながら、頭が上手く動かなかった。去年の秋。秋といえば、もうほぼ一年前になる。俺が今朝声をかけて、返事をしてきたのは誰だったのか。
オフィスに戻った。いつもの席に向かった。
隣の席には、誰も座っていなかった。荷物も、パソコンも、何もない。
俺は自分の席に座って、しばらく画面を眺め続けた。考えようとするのだが、考えれば考えるほど、おかしくなる。俺は今朝確かに話した。「お疲れ様です」と言ったら、「お疲れ様です」と返ってきた。それが聞き間違いや思い込みだったとは、どうしても思えなかった。
気になって、もう一度ポータルを開いた。中崎誠、と検索する。
結果が、出なかった。
さっきまであったはずのページが、どこにも見当たらない。削除されたのか、それとも最初から俺の見間違いだったのか。何度検索しても、中崎という名前の人物は他に一人しかヒットしなかった。まったく別の部署の、全然違う顔の人だった。
田端にもう一度聞いてみたくなった。でも、なんて聞けばいい。「中崎さんって、亡くなってたよ」と言ったら、田端は何と答えるだろう。それとも田端は最初から「最近見かけない」と言っていた。もしかしたら田端には、ずっと見えていなかったのかもしれない。
その日から、中崎さんを隣に見ることはなくなった。
翌日も、その翌日も、俺がいつもの席に座っても、隣には誰も来なかった。フリーアドレスのオフィスには空いた席がたくさんある。他の人が座ることもあれば、空いたままのこともある。ただ、以前あれほど規則的に来ていた人物が、ある日を境にぴたりと来なくなった。
ひとつだけ、どうしても整理のつかないことがある。
声をかけたあの朝、俺は確かに目が合った。その目は、俺を見ていた。ぼんやりとした、焦点の合わない目ではなかった。はっきりと、俺という人間を認識しているような目だった。
でも、どうして俺の隣だったのか。他に席はいくらでもあるのに、毎朝俺の隣を選んでいた理由が、今もわからない。
生前に、俺と中崎さんの間に何か接点があったのかどうかも、今となっては確かめようがない。俺には記憶がないが、向こうには何かあったのかもしれない。あるいは、単純に、俺の隣が何かの理由で居心地が良かったのかもしれない。
そういう理由があるとして、それが余計に怖い気もするし、少しだけ、申し訳ないような気持ちにもなる。
今もあの席に座ることはある。窓際の、奥から二番目。光の入り具合がちょうどいい、俺のお気に入りの場所だ。
隣の席が空いているとき、俺は時々、ひとつ分の椅子をちゃんと引いておくようにしている。
なんとなく、そうしなければいけない気がして。

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