壁の染みが増えていく部屋の話

これはフィクションです。引っ越し先のアパートの壁にあった小さな染みが、日を追うごとに少しずつ形を変えていく。気づいた時には、その染みが部屋の中に「何か」を映し出していた。

あれは二十代の後半、仕事の都合で県境の町に引っ越した時の話だ。

転職が決まって、新しい職場まで電車で二十分ほどの場所にアパートを借りた。築三十年近い物件で、内見した時から少し黴の匂いがしたけれど、家賃が相場より随分と安かったし、一人暮らしに必要な設備は一通り揃っていたから、そこに決めた。不動産屋の担当者は愛想のいい中年の男性で、「リフォームもしてますし、住んじゃえば慣れますよ」と笑っていた。その言葉に深く頷いて、僕は契約書に判を押した。

引っ越し当日、荷物を運び込みながら初めてゆっくりと部屋を見回した。六畳一間と小さなキッチン。窓は北向きで、昼間でも少し薄暗い。壁は白く塗り直されていて、リフォームの跡は確かにあった。でも、そこで気になるものを見つけた。

北側の壁、ちょうど腰の高さあたりに、直径十センチほどの薄茶色の染みがあった。手のひらで軽く触れてみると、塗料の表面は乾いていてざらりとした感触だった。染み自体も、浮き上がっているわけでも湿っているわけでもなく、壁の内側から滲み出たみたいに、輪郭がぼんやりしていた。

不動産屋に連絡しようかとも思ったが、取り立てて困るものでもないし、家具を置けば隠れるだろうと思って、そのまま放っておいた。本棚をその前に置いて、染みのことはほとんど忘れた。最初の一週間は、そんなものだった。

生活が落ち着いてきた頃、ふと本棚を動かす用事があった。本の整理をしていて、後ろの方に押し込んでいた文庫本を取り出そうとしたら、本棚全体をずらすことになった。

その時、また染みが目に入った。

最初に見た時より、少し大きくなっている気がした。気がした、というのは、最初に正確なサイズを測っていなかったからで、断言はできない。でも、確かに直感として、大きくなっている、と思った。本棚を元に戻して、スマートフォンで写真を撮った。比較するための記録として。

その後、一週間に一度くらいのペースで染みを確認する習慣ができた。最初は馬鹿馬鹿しいと思いながらやっていた。でも三週間後に撮った写真と最初の写真を並べると、明らかに違う。最初は十センチ程度だったものが、二十センチ近くになっていた。輪郭のぼやけた部分が外側に広がっていて、まるで染みが呼吸しているみたいだった。

壁の内側に何か水分があるのかもしれない。配管か、雨漏りか。不動産屋に電話した。担当者は「確認します」と言って、三日後に業者を一人連れてきた。業者は壁を軽く叩いたり、水回りを確認したりして、「水漏れは見当たりませんね」と言った。担当者も「こういうのは、建材が古くなると出ることあるんですよ。害はないですから」と苦笑した。

害はない。その言葉が妙に耳に残った。

六月に入った頃だったと思う。染みが、ある形に見えてきた。

正確に言うと、形というより配置だ。染みの中央部分と、その周囲に薄く広がった部分の、濃淡のパターン。それがある夜、部屋の電球の光の加減で、突然、横顔に見えた。人間の横顔。目のあたりが少し濃く、口のあたりが薄く開いているように見えた。

見えた、と思った瞬間に、もう見えなくなった。電気を消して寝た。翌朝、明るい光の中で確認すると、ただの染みだった。人の顔には見えなかった。夜の疲れ目が作った錯覚だと思うことにした。

でも、それからというもの、夜になると染みの前に立つのが怖くなった。本棚で隠していたのに、わざわざ染みを確認するために本棚をずらす自分もおかしいと思っていた。ただ、写真を撮る習慣だけはやめられなかった。

転機は、七月の半ばに訪れた。

その日は仕事が早く終わって、昼過ぎに帰宅した。部屋に入ると、何かが違う感じがした。具体的には説明できない。空気の質、みたいなものが普段と違う。窓を開けた記憶はないのに、少し風が動いているような。

北側の壁に目をやって、固まった。

本棚が、十センチほどずれていた。

地震かと思って、他の家具を確認した。テーブルの上のコップも、棚の上の小物も、全て元の位置にあった。本棚だけが動いていた。そして本棚の後ろの染みが、半分だけ露出していた。

その染みを見て、背筋が冷えた。

染みの形が、完全に変わっていた。今まで横に広がっていたものが、縦長になっていた。縦に伸びた楕円形。高さは四十センチを超えていたと思う。そして縦長の輪郭の内側に、細い線がいくつか走っていた。まるで人間の、指のような形に。

手だ、と思った。壁の向こうから、誰かが手を当てているような染みだった。

写真を撮りながら、手が震えているのが分かった。

その夜、眠れなかった。布団に入っても、北側の壁が気になって仕方がない。本棚で隠してあるのに、その向こうに何かいる気がして、目が覚めるたびに壁を見た。

翌朝、職場の同僚に話した。少し年上の、物事をよく知っていそうな先輩だ。笑い飛ばしてほしかったのかもしれない。でも先輩は、妙に真剣な顔で聞いていた。

「その部屋、入居前のこと調べた?」

調べていなかった。調べ方も知らなかった。

先輩が教えてくれたのは、市区町村の図書館に古い住宅地図が保管されていることがあって、土地の履歴が調べられるということだった。その日の退勤後、県境の町の図書館に寄った。

アパートの住所で検索して、二十年前、三十年前の住宅地図を確認した。今のアパートが建つ前、その土地には小さな平屋が建っていたらしい。住宅地図には「田中」という苗字が記載されていた。それ以上のことは分からなかった。

図書館の職員に聞いてみると、古い地元の広報誌のバックナンバーも保管されているという。三十年分近い冊子をざっと確認した。特定の事件や事故の記録は見つからなかった。当たり前だ、そんな都合よく出てくるわけがない。

でも、一冊だけ気になるものがあった。二十八年前の広報誌に、「地域の孤独死を防ごう」という特集記事が載っていた。その中に、地図が添付されていて、孤独死があった地域が丸印でいくつか示されていた。アパートの住所と同じ丁目に、丸印が一つあった。丁目は一致しているが、番地まで特定できるものではなかった。偶然かもしれない。

でも、その丸印を見た時、また手が震えた。

帰宅して、真っ先に本棚を動かした。染みを確認したくて、でも確認したくなくて、それでも確認した。

染みは、また変わっていた。

縦長だった形が、今度は上下ではなく、壁の表面に沿って斜めに広がっていた。まるで何かが倒れているような。そして指のように見えた細い線は、今は見えなかった。代わりに、染みの上部に、薄く滲んだ小さな丸が二つ、並んでいた。

目に見えた。

僕は本棚を元に戻して、その夜のうちに荷物をまとめ始めた。不動産屋に連絡して、違約金を払ってでも引っ越すと伝えた。理由は「体調不良」と言った。担当者は少し驚いたような声で、でも「分かりました」と言った。

引っ越しは三日後に完了した。

新しい部屋に移った夜、ようやく眠れた。

ただ、一つだけ気になることがある。引っ越しの片付けをしていて、スマートフォンの写真を整理した時のことだ。最初に染みを撮った写真から、最後に撮った写真まで、順番に見返した。

最初の写真に、おかしなものが写っていた。

最初に撮った時、染みは直径十センチほどの小さなもので、本棚の隣の壁に単独であった。それは覚えている。でも写真をよく見ると、染みの左側、壁の上部、ちょうど天井に近い部分に、薄い影のようなものが写っていた。

最初に見た時は気づかなかった。いや、最初に撮った時、あの部分に何かあったかどうか、記憶がない。

その影は、縦長だった。そして細かく見ると、上部に小さな丸が二つ、並んでいるように見えた。

最後に撮った染みの形と、同じだった。

最初から、あそこにあったのか。それとも、写真に何か別の理由で映り込んだだけなのか。

今も、その写真は消せずにいる。削除しようとするたびに、あの北側の壁の、薄暗い光の中で染みを見ていた夜のことを思い出して、指が止まる。

答えは分からない。

ただ、染みが増えていったのは確かで、形が変わったのも確かで、最初の写真に何かが写っていたのも確かだ。それ以上のことを、僕には説明できない。

あの部屋に今、誰かが住んでいるのかどうか、知る方法もない。

知りたいとも、思っていない。

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