これはフィクションです。新しいアパートに越してから、毎晩きっかり同じ時刻に玄関の呼び鈴が鳴るようになった。出ても誰もいない。それが何十日も続いたとき、ある夜だけ、何かが違った。
引っ越してきたのは、秋が始まりかけた頃だった。
仕事の都合で、県境に近い小さな町のアパートに移ることになった。築二十年を超えているらしいが、室内はリフォーム済みで、家賃は安かった。駅から少し遠い立地だったが、車通勤だったので特に問題はなかった。不動産屋の担当者は感じの良い中年の女性で、鍵を渡しながら「静かな物件ですよ」と笑った。その言葉を、最初はただの営業トークだと思っていた。
アパートは二階建ての全六部屋で、俺が入ったのは一階の角部屋だった。隣の部屋と、二階の部屋がいくつか埋まっているようで、たまに頭上から足音がした。引っ越し当日にすれ違った住人は一人だけで、若い女性だった。目が合うと小さく会釈して、そのままエントランスを出ていった。それ以外に会話らしい会話は、最初の数週間はなかった。
呼び鈴が最初に鳴ったのは、引っ越してから三日後のことだと思う。
時刻は夜の十一時を少し回った頃だった。スマートフォンで動画を見ながらだらだらしていたら、ピンポン、という間の抜けた音が玄関から聞こえてきた。宅配便には遅すぎる時間だと思いつつ、立ち上がって玄関に向かった。覗き穴から外を見ても、誰もいない。ドアを開けてみたが、廊下には誰の姿もなかった。風か、誤作動かと思って、そのまま戻った。
次に鳴ったのは翌晩だった。
また、十一時過ぎ。今度はさっきより少しはっきりとした音だった。ピンポン。廊下に出ると、やはり誰もいない。建物の外まで出てみたが、駐車場に停まった車と、風に揺れる電線があるだけだった。
三日目も、四日目も、まったく同じだった。
そのうち俺は、呼び鈴が鳴る時刻を意識して確かめるようになった。スマートフォンで時刻を見ながら待っていると、十一時三分か四分頃に必ず鳴る。誤差は一分もなかった。機械的なほど正確で、それがかえって気持ち悪かった。
誤作動を疑って、メーカーに問い合わせてみた。インターホンは比較的新しい型で、担当者は「その時間帯に周辺の電波環境が変化すると誤作動することがある、ごくまれなケースですが」と言った。一応納得できる説明ではあったが、試しにインターホンの電源ラインを確認してもらうと、特に異常は見当たらないということだった。
念のため、翌日の夜は外に出て待ち伏せすることにした。
十一時少し前に外へ出て、建物の角に立って廊下が見えるようにして待った。寒くはなかったが、夜の静けさが耳に痛かった。十一時三分、部屋の中から呼び鈴の音が聞こえた。外から鳴らした人間は誰もいない。廊下には誰もいなかった。俺は自分の部屋の玄関が見えるはずの位置にいたのに、そこには何も、誰もいなかった。
その夜は少し眠れなかった。
職場の同僚に話すと「それって幽霊じゃないの」と笑われた。笑われたことには少しむっとしたが、正直に言えば、そういう可能性を俺自身も頭の隅に置き始めていた。ただ、どこかで認めたくなかっただけだ。合理的な説明があるはずだ、と思い続けていた。
一ヶ月ほど経った頃、隣の部屋の住人に話しかける機会があった。
駐車場で顔を合わせた四十代くらいの男性で、以前から何度か廊下ですれ違っていた人だった。挨拶のあとで思い切って「インターホン、誤作動したりしませんか」と聞くと、相手は少し間を置いてから「ああ、夜ですか」と言った。
俺は驚いて「知ってたんですか」と聞いた。
男性は言葉を選ぶように「私は音は聞いてないんですが、前の住人の方に聞いたことがあって」と言った。前の住人。俺の前にここに住んでいた人が、同じことを経験していたということらしかった。ただ男性は「詳しくは聞いていないんですが、その方は一年経たずに出て行ってしまったので」と続けて、それ以上のことは教えてくれなかった。
その夜から、少し見方が変わった。
習慣として、呼び鈴が鳴る時刻をスマートフォンのメモに書き記すようにした。十一時〇三分、十一時〇四分、ほぼ毎日、ずれても一分以内。日付とともに記録を続けていると、ある日「このパターンはいつから始まったのか」が気になりだした。引っ越してきて三日後というのが最初だったと思っていたが、四日後だったかもしれないと曖昧になっていた。
記録を続けながら、俺は少しずつ別のことにも気づき始めた。
呼び鈴が鳴る前後、部屋の中が妙に静かになる瞬間がある。テレビをつけていても、外の車の音がしていても、鳴る直前の数秒だけ、音が遠くなるような感覚があった。最初は気のせいだと思っていたが、記録をつけ始めてから意識して確かめると、毎回そうだった。
十一時を過ぎると、俺は自然と玄関を見るようになっていた。
体が覚えてしまっていた。
引っ越しから五十日目くらいの夜だったと思う。その日は少し疲れていて、ソファで半分うとうとしていた。いつも通り、音のない数秒が来た。俺は目を開けて玄関を見た。そして、ピンポン、という音が聞こえた。
いつもと違ったのは、音の直後だった。
チャイムが鳴り終わって、静寂が戻った瞬間、ドアの向こうから声がした。
「……いますか」
小さな声だった。くぐもっていて、男か女かも判然としなかった。「いますか」という言葉だったと思う。あるいは「いますよ」だったかもしれない。でも確かに、声だった。
俺は動けなかった。
五秒か、十秒か、固まったまま玄関を見つめていた。それからゆっくり立ち上がって、覗き穴に目を近づけた。廊下の電灯が白く照らす空間に、誰もいなかった。ドアの前に人が立っている影も、気配もなかった。
手が震えていた。
ドアを開けるつもりはなかった。ただ、足が勝手に玄関に向かっていた。チェーンを掛けたまま、少しだけドアを開けた。三センチくらいの隙間から廊下を覗いたが、やはり誰もいない。左右を確認したが、誰も走り去る気配もなかった。ドアを閉めて、チェーンを外さないまま鍵もかけた。
その夜、ほとんど眠れなかった。
翌朝、ポストに薄紙が挟まっていた。印刷した文字で「管理会社からのお知らせ」という書き出しで、インターホンの点検を来月行う予定だという内容だった。管理会社に問い合わせると「以前からご要望があったものですが、少し遅くなってしまいました」と言われた。「以前から」というのが気になって「どなたからですか」と聞いたが、「申し訳ありません、記録が残っておりまして、どなたからかは確認できていないんです」という答えだった。
その後も呼び鈴は鳴り続けた。
点検の日、業者が来て一通り確認したが「特に異常はない」という結論だった。誤作動の痕跡もない、電波の干渉も見当たらない、と言って帰っていった。
それから二週間後、俺はアパートを出た。
仕事の都合、という名目で不動産屋に話をしたが、本当の理由はうまく説明できなかった。呼び鈴が怖くなったというより、自分が毎晩十一時を待ち構えるようになっていることに気づいたからだ。生活が、あの音を中心に回り始めていた。それがたまらなく嫌だった。
引っ越す前日の夜、最後だからと思って外に出て、自分の部屋の玄関が見える場所に立ってみた。
十一時三分、廊下の中から呼び鈴の音が聞こえた。
玄関の前には、何もなかった。影も、人の形も、何もなかった。だだ白い廊下の電灯だけが、音のない空間を照らしていた。
俺は翌朝、荷物を持って出た。
新しい部屋は別の町の、少し古いマンションの一室だった。引っ越し当日の夜、疲れてソファに横になっていたら、ふと時刻が気になった。スマートフォンを見ると、十一時〇一分だった。
玄関を見た。
二分が過ぎた。
玄関は静かなままだった。
俺はそっとスマートフォンを伏せて、目を閉じた。眠れるかどうかは分からなかった。

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