ひとり暮らしを始めた古いアパートで、届く荷物の宛名がいつの間にか知らない名前に変わっていた。最初は誤配だと思っていたが、その名前には見覚えがあるような、ないような──妙な感覚がずっとついて回った。
あれは俺が二十六の秋、仕事の都合で県境の町に引っ越した直後の話だ。
その町は、東と西どちらの県に属するのかよくわからないような、地図の端にある小さな場所だった。駅から徒歩十五分、古い住宅地の一角に三階建ての古びたアパートがあって、俺はそこの二〇一号室を借りた。家賃が相場より少し安く、角部屋で日当たりも悪くない。管理会社の担当者は愛想のいいおじさんで、「静かでいいところですよ」と繰り返した。確かに静かだった。上の階の足音もほとんど聞こえないし、隣室の気配も薄い。最初はそれを快適だと思っていた。
引っ越してから二週間ほど経った頃、ネットで注文した日用品が届いた。段ボール箱を受け取って部屋に運び、ふと伝票を見た。住所は合っている。部屋番号も合っている。でも宛名の欄に書いてあった名前が、俺の名前じゃなかった。
「ミヤザキ・ヒロノブ様」
そう書いてあった。俺の名前は別の名前で、ミヤザキとは全く関係がない。注文したのは間違いなく俺自身で、アカウントに登録してある名前も住所も、ちゃんと自分のものだ。配送業者のミスか、システムのエラーか。荷物の中身は俺が注文したものだったから、そのときはそう思って流した。業者のアプリからそれとなく問い合わせフォームに送っておいたが、返信は特になかった。
次に何かが届いたのは、それから十日後だった。
今度は通販ではなく、故郷の母親から荷物が来た。季節の変わり目に必ず送ってくれる、漬物や乾物の詰まった段ボールだ。受け取りの押印をして、配達員が去ってから伝票を確認すると、また「ミヤザキ・ヒロノブ様」と書いてあった。
母親が書いた宛名が、どうしてそんな名前になるんだ。
電話で確認した。母親は「あんたの名前で送ったよ、何回も書いてるんだから間違えるわけない」と言った。実際、段ボールの側面にマジックで書かれた差出人の欄には、俺の実家の住所と母親の名前がきちんと記されていた。でも伝票の宛名だけが、ミヤザキ・ヒロノブという名前になっていた。
おかしい、とは思ったが、この時点ではまだ「不思議なこともあるもんだ」くらいの感覚だった。
転機になったのは、その翌月に届いた一枚のはがきだ。
差出人も何もない、白い封書のようなはがきだった。俺宛てに届いたというよりも、郵便受けの中にただ入っていた。表には俺のアパートの住所と部屋番号だけが書いてあって、宛名の欄にはまた「ミヤザキ・ヒロノブ様」とあった。裏には、鉛筆で書かれたような薄い文字でこう書いてあった。
「お知らせが届いていますか」
それだけだった。差出人なし、消印なし、切手もなかった。ポストに直接投函されたものだろうか。俺はそのはがきをしばらく眺めて、それから引き出しの奥にしまい込んだ。捨てようとしたが、なぜかそうする気になれなかった。
ミヤザキ・ヒロノブという名前が何者なのか、気になり始めたのはそこからだ。
アパートの管理会社に連絡して、以前この部屋に住んでいた人の名前を教えてもらえないか聞いてみた。個人情報だから詳しくは言えないと断られたが、担当のおじさんが少し声のトーンを変えて、「なにかありましたか」と聞いてきた。宛名の件を話すと、電話口でしばらく沈黙があって、「それはこちらでは把握できないので、もし困ったことがあれば配送業者にご連絡ください」と言って、会話を終わらせようとした。俺は食い下がって、「以前の入居者が長く住んでいた方なのか」とだけ聞いた。おじさんは「詳しくは」と言いかけて、止まって、「長い方でしたね」とだけ言った。
その晩、俺はインターネットでミヤザキ・ヒロノブという名前を検索した。ありふれた名前ではないが、珍しくもない。該当する人間は何人もいて、絞り込む手がかりがなかった。県境の町という地名と組み合わせて調べても、これといった情報は出てこなかった。
しかし、その検索をしていた夜に、ひとつ気づいたことがある。
俺のパソコンの宛名入力フォームを確認しようとして、メインで使っている通販サイトのアカウントを開いた。お届け先の設定欄を見ると、名前の欄にはちゃんと俺自身の名前が登録されている。変更された形跡もない。なのに、過去の注文履歴を遡って最初の配送の伝票番号を追いかけてみると、配送状況のページに表示された受取人の欄が、「ミヤザキ様」と省略されていた。アカウントに登録した名前と、システム上で表示される名前が、どこかで食い違っている。
俺はログアウトして、しばらく画面を見つめていた。
次の週、同じフロアの住人と廊下で顔を合わせた。二〇三号室に住んでいる、六十代くらいの女性だ。引っ越してから何度かすれ違ったことがあるが、挨拶程度しか言葉を交わしたことがなかった。その日はたまたまタイミングが重なって、少し立ち話になった。
「最近この棟に来た方ですよね」と彼女は言った。俺が頷くと、「そうですか、あのお部屋にまた人が来たんですね」と、少し独り言のようにつぶやいた。
「あの部屋って、何かあるんですか」
聞いたら、彼女は少し困ったような顔をした。
「以前、ずいぶん長く住んでらした方がいたんです。一人暮らしの男の方で、おとなしい方でした。私が越してきた頃にはもうお住まいで、何年いらしたのかも知らないくらい」
「その方が、ミヤザキさん、ですか」
女性はわずかに目を見開いて、「ご存知なんですか」と言った。
「荷物の宛名に、その名前が出てくるんです」
彼女は少し黙ってから、「それは困りましたね」と言った。困りましたね、という言い方が妙に平板で、感情のない言葉に聞こえた。
「ミヤザキさんは、どうされたんですか。引っ越しされたんですか」
「さあ」と彼女は言った。「ある時からいらっしゃらなくなって。荷物が届いたり、郵便が来たりしていましたけど、いなくなってしまいましたね。管理会社の方が部屋を片付けていって、それから何ヶ月か空き部屋になっていたんです」
それから彼女は何か言いかけて、やめた。俺は待ったが、彼女は「寒くなりましたね」とだけ言って、自分の部屋に戻っていった。
その夜、俺はもう一度引き出しからあのはがきを取り出した。
「お知らせが届いていますか」
届いていますか、というのは何に対する問いかけなのか。お知らせというのは何のことなのか。差出人も消印も切手もない。誰が、いつ、俺の郵便受けに入れたのか。
俺はそのはがきを裏返して、もう一度細かく確認した。初めて気づいたことがあった。文字の下に、ごく薄く、別の字が透けているような気がした。強い光に透かしてみると、もともと別の文字が書いてあったものを消して、上から書き直したように見えた。消された文字は読み取れなかったが、その痕跡だけがそこにあった。
問いかけではなく、元々は別の何かが書いてあったのかもしれない。
それからというもの、荷物の宛名はしばらく元に戻った。俺の名前で届くようになって、ミヤザキ・ヒロノブという名前は出てこなくなった。はがきも二度と来なかった。二〇三号室の女性とも、その後は廊下で会っても会釈をする程度で、あの話に戻ることはなかった。
ただ、ひとつだけ、今でも気になっていることがある。
俺の部屋には、前の住人が置いていったものはほとんどなかった。管理会社が片付けていったのだから当然だ。ただ、下駄箱の一番奥の棚の隅に、小さなメモ用紙が一枚だけ残っていた。引っ越し当初に見つけていたが、特に気に留めずにそのままにしていた。
何気なくそれを手に取ったのは、はがきを見つけた夜からずっと後のことだ。
薄くなった鉛筆の字で、こう書いてあった。
「届いていなければ、もう一度送ります」
俺の名前は、ミヤザキでも何でもない。俺は俺として、ちゃんとここに住んでいる。
でも、ときどき思う。配達員が俺の顔を見て、俺の名前で受け取りのサインを受け取ったとき、相手の画面にはどんな名前が表示されていたのだろう、と。
確かめる方法が、俺にはわからない。


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