うちの猫が、あの角を見ていた話

Uncategorized

引っ越して間もない頃から、飼い猫のムギが毎晩、部屋の同じ角をじっと見つめるようになった。最初は動物の習性だと思っていた。でも、ある日の夜、私はムギの視線の先に、ほんのわずかな変化を見つけてしまった。

ムギがあの角を見るようになったのは、引っ越してから三週間ほど経った頃だったと思う。

新しい部屋は、県境に近い小さな町の、築十五年ほどの2LDKだった。仕事の都合で急いで決めた物件で、内見の時間もろくに取れないまま、ほとんど勢いで契約したような部屋だ。日当たりも悪くないし、近くにスーパーもある。特別いいわけでも悪いわけでもない、ごく普通の住まいだった。

ムギは三歳になるキジトラの雌で、私が一人暮らしを始めた年に拾った猫だ。神経質なタイプではなく、どちらかといえばのんびりした性格で、引っ越しのストレスも一週間もすれば落ち着き、新しい部屋にすっかり馴染んでいた。ご飯もよく食べるし、昼間は日の当たる窓辺でごろごろしている。だから、あの行動が始まったとき、最初はまったく気にしていなかった。

リビングとダイニングをつなぐ境目、ちょうど北東の角に当たる場所がある。梁の出っ張りがあって少し薄暗くなっているその角を、ムギは毎晩、見つめるようになった。

最初に気づいたのは夜の十一時ごろ、テレビを見ながらぼんやりしていた時だ。ムギがいつもなら膝の上にいるはずなのに、その日は床の真ん中に座って、首だけすっと伸ばして、あの角を見ていた。猫がぼんやりと空中を眺めることはよくあるから、そのときは「何か見えてるのかな」くらいで笑って流した。

でも、それが続いた。

次の日も、その次の日も、必ず夜になるとムギは同じ場所に移動して、同じ角をじっと見つめる。昼間は何でもない。朝ごはんを食べて、窓際で寝て、夕方になれば遊んで、いつも通りだ。でも夜の十時を過ぎると、まるで時計で計ったみたいに、あの定位置に移動する。

耳はぴんと立っていて、尻尾は床に緩くついている。鳴くわけでも、威嚇するわけでもない。ただ、見ている。

ネットで調べたら「猫には人間には見えない光の波長が見える」とか「虫が壁を這っているのを感じ取っている」とか、そういう説明がたくさん出てきた。私はそれで自分を納得させていた。築十五年もすれば、目に見えない小さな虫くらいいるだろう、と。

変化に気づいたのは、引っ越しから一ヶ月半ほど経った頃だった。

その日、仕事から帰ってリビングに入ったとき、なんとなく、あの角のあたりが「いつもと違う」と感じた。うまく言葉にできないのだが、空気の密度みたいなものが、そこだけ少し重い気がした。気のせいだと思ってキッチンに向かったが、夕飯を作りながらもずっと、その感覚が頭の端っこに残っていた。

その夜、ムギはいつものように角を見ていた。でも私は、ふと思って、ムギの横に膝をついて、ムギと同じ方向を見てみた。

何もなかった。梁の陰になった、薄暗い壁のコーナー。ちょうど壁と壁が交わる部分、クロスの継ぎ目が一本、縦に走っているだけだ。

ただ、そのとき初めて、そのクロスの継ぎ目の様子が少し変だと思った。

継ぎ目は床から天井まで、まっすぐ一本入っているのだが、床から三十センチほどのところだけ、わずかに継ぎ目が「膨らんでいる」ように見えた。クロスが少し浮いているのだろうか。築年数を考えれば珍しくもないが、入居当初にはそんな膨らみはなかったように思えた。

ただの壁紙の経年劣化だと判断して、その夜は終わった。

それから数日後、私は友人を家に招いた。同じ職場のミノリさんで、引っ越し祝いが遅くなったからと手土産を持ってきてくれた。部屋を案内しながら他愛のない話をして、ワインを開けて、気づけば夜の十一時を過ぎていた。

ムギはリビングに来ていつもの角を見始め、ミノリさんが「かわいい」と声をかけたが、ムギはちらとも振り向かなかった。

「この子、よくそこ見てるの」と私が言うと、ミノリさんは「何か見えてるんじゃない?猫ってそういうことあるよね」と笑った。でも少しして、ミノリさんがぽつりと言った。

「あそこ、なんか壁が変じゃない?」

私は驚いて「気づいた?」と返した。ミノリさんは立ち上がって角に近づき、膨らんだ継ぎ目のあたりを指先で押してみた。

「ちょっとだけ硬い気がする。中に何か入ってるのかな、断熱材とか」

ミノリさんは特に怖がる様子もなく、そのまま話題を変えた。その日は結局それだけで終わったが、私の中にはその言葉が小さな引っかかりとして残った。「中に何か入ってる」。

その夜、ミノリさんが帰った後、私は一人であの角の前に立った。壁に耳をあてて、軽くノックしてみた。

コン、とくぐもった音がした。他の壁の部分をノックすると、もっと軽くて乾いた音がする。でもあの継ぎ目のあたりだけ、確かに、音が違った。密度が違う、と言えばいいのか。

管理会社に連絡すべきか迷ったが、壁の中の断熱材か何かだろうと思い直して、その夜は寝た。

それから一週間ほどして、変なことがあった。

朝起きたら、ムギが部屋の真ん中で、丸くなって眠っていた。いつもは私のベッドの足元か、窓際のクッションの上で寝ている。こんな場所で寝ているのは初めてだった。起こさないようにキッチンへ向かおうとして、私はあの角を見た。

継ぎ目の膨らみが、大きくなっていた。

いや、大きくなった、という表現が正しいのかわからない。でも、以前は床から三十センチほどだったその膨らみが、今は床から六十センチ、七十センチくらいの高さまで続いているように見えた。

私はしばらくそこに立ったまま、動けなかった。昼間の明るい光の中でも、その膨らみははっきりと分かった。壁紙が内側から押し出されているような、そういう形だった。

その日のうちに管理会社へ連絡した。翌日、業者の人が来て壁を確認した。壁紙の接着剤が劣化して、内側の断熱材が動いたんだろう、という説明だった。壁紙を一部はがして確認する必要があるが、大がかりな工事になるかもしれないと言われ、修繕の日程を後日調整することになった。

業者の人が帰った後、私はリビングでコーヒーを飲みながら、ムギを眺めていた。ムギはその日、夕方になっても角を見ていなかった。窓際で丸まって、気持ちよさそうに眠っていた。

一週間後、壁紙の修繕が行われた。業者の人が壁紙をはがすと、内側の石膏ボードに、水のシミのような跡があった。どこかで微妙に結露が起きていたのだろうということで、乾燥させてから新しい壁紙を貼り直した。作業は半日ほどで終わった。

部屋はきれいになった。あの継ぎ目の膨らみも消えた。

それからムギは、あの角を見なくなった。

……という話なら、「壁の中の水漏れに猫が気づいていた」で終わる、ちょっとかしこいペットの話で済む。

でも一つだけ、どうしても消えない引っかかりがある。

業者の人が壁紙をはがす前日の夜、私は眠れなくて夜中の二時ごろにリビングへ水を取りに行った。暗い廊下を通ってリビングの電気をつけようとして、そのまま手が止まった。

暗闇の中、ムギがあの角の前に座っていた。

いつもの定位置ではなく、角のすぐそば、壁から一メートルも離れていない場所に、体を小さく縮めて座っていた。

そしてムギは、いつものように角を見ていなかった。

ムギは角に背を向けて、部屋の入口、私が立っている方を向いていた。

目が合った。ムギの目が暗闇の中でほのかに光っていた。

私は電気をつけた。ムギは何事もなかったようにあくびをして、ゆっくりとキッチンの方へ歩いていった。

電気をつけた部屋の中、あの角は何もなかった。膨らんだ壁紙と、縦に走る継ぎ目があるだけだった。

ただ、私はその夜初めて気づいたのだが、あの継ぎ目は、一本だけではなかった。

もう一本、継ぎ目に並行して、うっすらと、細い線が走っていた。

壁紙が重なっているのか、それとも別の何かなのか、私には判断がつかなかった。

翌日の修繕で壁紙が全部はがされたとき、私はそのことを業者の人に聞こうとして、やめた。

うまく説明できなかったし、何より、業者の人の「水のシミ以外は何もなかった」という言葉を聞いて、なんとなく、それ以上確認したくなかった。

今はあの角に、観葉植物を置いている。ムギはもうあの場所を見ない。昼間は窓際で寝て、夜は私の膝の上で丸くなっている。

それでいい、と思っている。

ただ、たまに夜中に目が覚めると、私はつい、リビングの方に耳を澄ましてしまう。

ムギが動く気配がないか、確かめるように。

スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました