【怖い話】空き地に、毎年同じ匂いがした

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子どもの頃、台風の夜に近所の空き地で嗅いだ匂いの正体を、大人になってから知った。あの夜、私はすでに「そちら側」にいたのかもしれない。

これは私が三十代も半ばになってから、ようやく言葉にできた話だ。

子どもの頃の記憶というのは、どこかぼんやりしている。輪郭が曖昧で、感情だけが妙に鮮明に残っている。でも、この話だけは違う。あの夜の空気も、音も、そして何より匂いも、今でも皮膚の内側から思い出せる。

私が小学三年生のとき、家族で県境に近い小さな町に引っ越した。父の仕事の都合で、前の家から一時間ほど離れた、山に半分かかるような静かな町だった。新しい家は古い一戸建てで、向かい側に小さな空き地があった。雑草が生えていて、石ころが転がっていて、誰かが昔なにかを建てていたような、コンクリートの端っこだけが残っているような場所だった。

不動産屋さんは「更地です、特に何もありません」と言っていたそうだ。母から後になって聞いた。

引っ越してきた当初、私はその空き地をとくに気にしていなかった。子どもというのは案外、土地に無頓着だ。あそこで虫を捕まえてはいけない、とか、あの草のなかに入ってはいけない、とか、そういう理由がなければ、ただの空白として認識する。私にとってその空き地も、最初はそういう「何もない場所」だった。

変化に気づいたのは、引っ越してから二度目の夏の終わり、台風が来た夜のことだ。

その年の台風は、地域のニュースでも何度か取り上げられたほど大きかった。前日から雨が降り続き、当日の夜には暴風が吹いて、雨戸がガタガタと揺れていた。母は早めに雨戸を全部閉めて、父は仕事から帰れなくなっていた。私と母と、弟の三人で、台所に近い部屋に布団を引いて、テレビをつけたまま早めに横になっていた。

夜中の、たぶん二時か三時ごろだったと思う。私はふと目が覚めた。

雨音がすごかった。屋根を叩く音と、風の音が交互に来て、家全体がゆっくりと揺れているような感覚があった。弟は隣で寝息を立てていて、母も目を閉じていた。私はしばらく天井を見ていたのだけれど、そのうちに、何かが鼻に届いた。

線香の匂いだった。

最初は気のせいかと思った。台風の夜に、線香の匂いがするはずがない。でも、それははっきりとそこにあった。甘ったるくて、少し重たい、あの匂い。お盆にどこかの家の前を通ったときに漂ってくるような、知らない家の仏壇の前に立ったときのような、そういう匂いだった。

私は起き上がって、母を揺すった。

「お母さん、なんか変な匂いがする」

母は眠そうに目を開けて、「何?」と言いながら鼻をひくひくさせた。それから少しの間があって、「……わからない、気のせいじゃない?」と言って、また目を閉じた。

でも私には確かに匂っていた。

怖かったわけではない。むしろ、不思議と落ち着いた気持ちになっていた。それが今思うと、一番おかしい。あの匂いを嗅いでいる間、私はどこか眠たいような、ふわふわした感覚の中にいた。そのまま横になったら、気づかないうちに寝ていた。

台風が過ぎた翌朝、私は空き地を見た。木が倒れていた。雑草は横なぎになっていた。でも、奥の方に、小さな石が並んでいるのが見えた。丸い石が、五つか六つ、等間隔に並んでいた。

私はそれが台風の前からあったのかどうか、思い出せなかった。

その後、私たちはその町に三年住んで、また別の場所に引っ越した。父の転勤だった。空き地のことも、あの夜のことも、大人になるにつれてゆっくりと記憶の底に沈んでいった。

それが、三十代になってから急に浮かび上がってきたのは、母の荷物を整理していたときのことだ。

母は数年前から施設に入っている。認知症が進んで、今はもう私のことを娘だとわかる日とわからない日がある。去年の秋、実家の一室を片付けていたら、古い段ボール箱の中から、ノートが出てきた。

母の字で、日付と短い文が書かれていた。日記のようなものだった。

読んでいくと、あの県境の町に住んでいた時期のページがあった。そこに、こんな文章があった。

「台風の夜、○○(私の名前)が匂いがすると言って起きてきた。私には何もわからなかったけれど、翌朝、あの子の布団に線香の灰が少し落ちていた。どこから来たのか、今でもわからない」

私は何度もそこを読み返した。

線香の灰が、落ちていた。

母は私にそのことを話したことは一度もなかった。なぜ黙っていたのかはわからない。ただ、ノートにはそれ以上のことは書かれていなかった。

私はその後、当時の記憶をできるだけ引き出そうとした。あの空き地のこと、引っ越してきたときのこと、近所の人から何か聞いたことがなかったか、ということ。

一つだけ、思い出したことがある。

あの町に住んでいたとき、私には近所に仲の良い友達がいた。名前は仮にサユリちゃんとしておく。彼女の家は空き地のすぐ横だった。よく一緒に下校して、彼女の家の縁側に座っておやつを食べた。

サユリちゃんは、ある日、空き地を指さして言った。

「あそこにね、前は家があったんだって。おじいちゃんが言ってた」

私は「そうなの」と答えた。子どもだったから、それ以上は気にしなかった。

でも今になって思うのは、もし本当にそこに家があったとしたら、誰が住んでいたのか、ということだ。そして、なぜ更地になったのか。

私はもうその町のことを調べる術がない。サユリちゃんとはあの引っ越し以来、連絡が途絶えた。母に聞いても、今の母には難しい。

ただ、一つだけ、引っかかっていることがある。

ノートを読み返しているとき、もう一か所、気になるページを見つけた。日付は台風の翌々日だった。そこには短くこう書かれていた。

「○○(私の名前)の様子がおかしい。台風の夜から、少し違う気がする。うまく言えないけれど、目の奥が遠くなったような感じがする。気のせいかもしれない」

私はその文章を読んで、少し時間が止まったような気持ちになった。

「台風の夜から、少し違う気がする」

私には、その夜の記憶がない。布団に横になって、匂いを嗅いで、そのまま眠った、というところまでしかない。目が覚めたときのことも、実はよく覚えていない。翌朝、空き地を見ていた場面から、急に記憶が続いている。

あの夜、私は何をしていたのだろう。

台風の大雨の中、眠ったまま起き上がって、どこかに行っていたのだろうか。それとも、どこかから、何かが来ていたのだろうか。

母のノートを閉じて、段ボール箱の奥にしまいながら、私はふと思った。

あの空き地に並んでいた石は、翌朝になって初めて気づいた、と思い込んでいたけれど、もしかしたら違うのかもしれない。

あの石を並べたのが、夜中にふわふわした気持ちで起き出した、眠っているはずの私だったとしたら。

それとも、あの石は最初からそこにあって、私は台風の夜、それを確かめに行っていたのだとしたら。

どちらにしても、私には確かめる方法がない。

ただ、今でも線香の匂いが漂ってくることがある。知らない家の匂いが、ふとした瞬間に鼻をかすめることがある。決まって夜で、決まって雨が強い日だ。

そのたびに、私は窓の外を見る。

何もない。ただ、雨が降っているだけだ。

でも、なぜか確かめたいような、確かめてはいけないような、妙な感覚が体の中に残る。

それが何なのか、私にはまだわからない。わかりたいとも、正直、思っていない。

母のノートは、段ボール箱の奥に入れたままにしてある。

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