その廃病院に、入ってはいけない

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閉鎖された病院の敷地に足を踏み入れた翌朝から、俺のスマホには知らない誰かの「既読」が積み上がり始めた。毎朝6時14分、俺の位置情報は、あの場所を指している。

これを書くことに、少し迷った。

書いたら何かが確定してしまう気がして、ずっと下書きフォルダに入れたまま放置していた。でも最近、状況がまた動き始めたので、記録として残しておきたいと思う。信じてもらえなくてもいい。俺自身、まだ信じきれていない部分があるから。

俺は今年で大学三年になる。県境にある小さな町の、築四十年近いアパートで一人暮らしをしている。実家からは電車で一時間半ほどの距離で、帰ろうと思えば帰れるが、なんとなく年に数回しか帰らない。そういう、特筆すべきことのない普通の大学生だ。

事の発端は、去年の秋のことだった。

サークルの先輩に誘われて、廃病院の写真を撮りに行った。心霊スポット目的というより、建築系のゼミに所属している先輩が「廃墟の構造を写真に収めたい」と言っていて、俺は単純に暇だったので同行した。その病院は、町はずれの山裾に建っていて、十五年以上前に閉院したと地元の人間は言っていた。正式な施設名もよく分からないまま、俺たちはフェンスの破れ目から敷地内に入った。

建物自体には入っていない。これは本当のことで、扉は金属の板で完全に塞がれていたし、先輩も「中には入らなくていい、外観だけ撮れれば十分」と言っていた。だから俺たちは建物の周囲をぐるっと回り、一時間も経たないうちに帰った。それだけの話だ。

問題は、翌朝から始まった。

最初に気づいたのは、LINEのトーク画面だった。俺には大学の友人、バイト先の同僚、地元の中学時代の友人、そういった百数十人分の連絡先がある。朝起きてスマホを開くと、トーク一覧の一番上に、見覚えのない名前が表示されていた。

「08-」から始まる、ハイフンの位置が変な電話番号だった。名前のない、数字だけの連絡先。そこから俺に何かメッセージが届いているわけではなく、ただそのトーク画面が、既読になっていた。

俺が、誰かのメッセージを既読にした記録として。

でも俺には、身に覚えがない。そのトーク画面を開くと、メッセージは一件も入っていなかった。空白のトーク画面に、俺の「既読」だけがついていた。

寝ぼけて変なところを触ったのかと思って、そのまま放置した。アンインストールしてまた入れ直すのも面倒だったし、翌日には忘れていた。

ところが次の朝、また同じことが起きた。

今度は別の連絡先だった。「19-」から始まる、やはりハイフンの位置がおかしい番号。国際番号かとも思ったが、調べてもどこの国の形式とも一致しない。そのトーク画面も、メッセージは空白で、俺の既読だけがついていた。

そのときに初めて、前日の件を思い出して、少し嫌な気持ちになった。

知らない連絡先が増えていく。しかもそれぞれ、既読だけがついている。誰かが俺のスマホを操作しているのかと疑って、パスコードを変えた。指紋認証も設定し直した。でも翌朝、また新しい番号が増えていた。

俺はそのとき、一人暮らしのアパートで一人で寝ていた。

奇妙なことに、それらの既読がつく時刻が毎回同じだった。スマホのアクティビティ履歴を確認したら、毎朝6時14分に、LINEアプリへのアクセスが記録されていた。俺は普段7時過ぎに起きるから、6時台にスマホを触ることはまずない。

6時14分。

その時刻に俺のスマホは、知らない誰かのトーク画面を開いて、既読をつけていた。

もっと気持ち悪かったのは、位置情報のほうだ。

LINEの設定を調べていたら、位置情報の送信履歴が残っていた。これも毎朝6時14分、ほぼ同時刻に、位置情報が記録されていた。スクリーンショットを撮って、地図アプリでその座標を調べた。

町はずれの山裾。俺が先輩と一緒に行った、あの廃病院の敷地内だった。

最初は誤作動だと思った。GPSの誤差とか、電波の反射とか、そういうやつだと思いたかった。でも毎朝、同じ時刻に、同じ座標が記録されていた。しかも俺がその廃病院に行った翌朝から、ずっと。

先輩にこの話をしてみた。先輩はゼミの研究に熱心な、わりと現実的な思考の人間で、「それ、アプリの不具合じゃないの」と笑っていたが、位置情報の座標を見せたら少し黙った。先輩も同じ日に同じ場所に行っていたはずなので、「先輩のスマホも確認してみてください」と頼んだ。

先輩のスマホには、何も起きていなかった。

知らない連絡先も増えていないし、位置情報の異常もない。先輩は「俺には関係ないのか」と冗談めかして言ったが、その目が少し笑っていなかった。

俺は自分だけに何かが起きているという事実を、そのとき改めて突きつけられた気がした。

知らない連絡先の数を数えてみた。廃病院に行ってから約二ヶ月で、十七件になっていた。どれも同じ形式の、ハイフンの位置がおかしい電話番号で、メッセージは空白、俺の既読だけがついている。

一件ずつ開いてみると、それぞれ既読がついた日付が分かった。最初の一件は廃病院に行った翌朝。二件目はその次の朝。以降、毎朝一件ずつ増えているわけではなく、たまに二、三日空くこともある。でも必ず6時14分に既読がつく、という点は一貫していた。

俺はそのとき、一つのことが頭から離れなくなっていた。

廃病院が閉院したのは十五年以上前。地元の人の話では、最後まで残っていた患者が何十人かいて、転院先を見つけながら徐々に移送したのだという。全員が無事に転院できたのかどうかは、俺には分からない。

十七件の、知らない連絡先。

数えたときに、その数字がどこかに引っかかった気がして、でもその引っかかりの正体を、俺はまだ確かめていない。確かめに行く気になれないでいる。

ある夜、試しに一件の番号に電話をかけてみた。

コール音は鳴らなかった。繋がる気配もなく、かといってエラー音も鳴らない。ただ無音が続いて、俺が切った。それだけだった。

ただ、切った直後に気づいたことがある。電話の通話時間が、「00:00」ではなく「00:01」になっていた。一秒間、何かと繋がっていた記録が残っていた。

それ以来、電話はかけていない。

今のところ、俺の日常生活に実害はない。スマホの動作が遅くなっているわけでも、バッテリーが異常に減るわけでもない。ただ毎朝6時14分に、見えないところで何かが起きている。

先月、別のことに気づいた。

LINEの連絡先一覧を上から順に見ていたとき、それらの番号が登録された順番に並んでいることに気づいた。最初の一件、次の一件、という順番で。そしてよく見ると、番号の末尾の数字が少しずつ変化している。完全にランダムではなく、何かの規則性があるような気がする。でも俺には解読できない。

俺は数字に強いほうではないし、暗号の知識もない。ただ、その並びを見ていると、誰かがカウントしているような、そういう感覚を覚えた。

俺に向かって、何かを数えている。

最近になって、また一件増えた。これで二十三件になった。

この話を書いているのは、記録として残しておきたいからだ。もし俺が今後、スマホの記録を確認できなくなるようなことがあったとき、ここに書いておけば誰かの目に触れるかもしれない。

廃病院に行ったのは俺と先輩の二人だけだったが、先輩のスマホには何も起きていない。俺にだけ起きている。あの日、俺は先輩より少しだけ奥まで歩いた。建物の裏手に回ったとき、崩れかけた壁の前に、何かが置いてあった。花瓶だと思う。朽ちていたが、形は残っていた。それを踏まないように、俺は少し立ち止まった。

今思えば、その場所で立ち止まったこと自体が、何かのタイミングと重なったのかもしれない。でも確かめようがない。

今朝も6時14分に、俺のスマホは動いた。

毎朝、俺が目を覚ます前に。

俺は今日もその座標に、行っていないはずだ。

でも俺のスマホの記録には、あの廃病院の敷地内から、また既読が送られている。

誰かのトーク画面を、開いた記録が残っている。

空白のトーク画面を。

これは今も続いている。

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