山あいの集落で過ごした夏、停電のたびに宛名のない手紙と留守電が届いた。誰が送っていたのか、何を伝えようとしていたのか、いまも答えは出ていない。
これは、去年の夏に俺が経験したことの記録だ。
怖かったかと聞かれると、正直なところよくわからない。怖いというより、ずっと何かがかみ合っていない感じがした。歯車が一枚ずれたまま回り続けているような、そういう気持ち悪さだった。答えは今も出ていないし、たぶん出ないと思っている。だから記録だけ残しておく。
大学の夏休み、俺は母方の祖父の家に一人で滞在することになった。祖父はその春に亡くなっていて、祖母は施設に移っていた。誰もいなくなった家を、秋に売却する前に片付けるという名目だった。家族の中で予定が合ったのが俺だけで、二週間ほどそこで暮らしながら荷物を整理することになった。
場所は、県境に近い山あいの小さな集落だ。最寄りのコンビニまで車で三十分かかるような場所で、集落全体に十数軒しか家がない。川沿いに細長く家が並んでいて、裏はすぐ山になっている。夏でも夜は冷えて、日が落ちると虫の声しかしなくなる。
祖父の家は集落の端にあった。二階建ての古い木造で、縁側から田んぼと山が見える。子供の頃に何度か遊びに来たことはあるが、一人で泊まるのは初めてだった。
着いた翌日から、荷物の整理を始めた。押し入れに詰まった古い衣類、納戸に積まれた農具、仏壇の周りの細々したもの。祖父は几帳面な人だったらしく、段ボールには中身が丁寧に書いてあって、作業は思ったよりスムーズに進んだ。
問題が起きたのは、四日目の夜だった。
夕飯を食べ終えてしばらくすると、突然家中の電気が消えた。停電だった。スマートフォンのライトで確認したら、ブレーカーは落ちていない。外を見ると、集落全体が真っ暗になっていた。地域ごとの停電らしかった。
田舎の停電は長い、と母から聞いていたので、ロウソクを探して居間に腰を落ち着けた。そのとき、玄関の方で音がした。
郵便受けに何かが入る音だった。
時計を見ると、夜の九時を少し過ぎていた。こんな時間に配達はない。首をかしげながら玄関を開けると、郵便受けに白い封筒が一通入っていた。外に人影はなく、砂利を踏む音もしなかった。
封筒を手に取って確認した。切手も消印もなかった。宛名もなかった。差出人の名前もなかった。ただ、表に「お読みください」とだけ、細いボールペンの字で書いてあった。
中に入って開けた。便箋が一枚入っていた。
書いてあったのは、天気の話だった。「明日は雨になるかもしれません。山の川は増水しますので、川沿いの道は使わないようにしてください」という内容だった。それだけだった。署名はなかった。
正直、最初は近所の人の親切だと思った。見慣れない若者が一人で来ているのを気にして、地元の人が知らせてくれたのかもしれない、と。ただ、この時間に、名前も書かずに、というのが少し引っかかった。
翌日は確かに雨だった。川は濁って水かさが増していて、集落を縦断する細い道は通行止めになっていた。手紙の内容は正確だった。
一週間が過ぎた頃、二度目の停電があった。
今度は昼過ぎだったが、やはり夜まで復旧しなかった。暗くなってからロウソクを灯して過ごしていると、また郵便受けに音がした。夜の八時半ごろだったと思う。
また白い封筒だった。切手も消印も宛名もない。「お読みください」という文字だけ。
開けると、今度はこう書いてあった。「裏山の道に入らないでください。今は入ってはいけない時期です」
それだけだった。なぜ入ってはいけないのか、いつまでなのか、何も書いていなかった。
俺は実際、その二日前に裏山の登り口を少し探索しかけていた。草をかき分けて十メートルほど入ったところで、なんとなく気分が悪くなって引き返した。それだけの話で、何か見たわけでも聞こえたわけでもない。でも手紙を読んで、急に背中が冷えた。俺が山に入りかけたことを、誰かが見ていたということになるから。
翌日、集落の中で顔見知りになっていた老人に聞いてみた。祖父の家に荷物整理で来ている孫だと話すと、すぐわかってくれた人だった。
「停電のとき、誰かが郵便受けに手紙を入れていませんでしたか」と聞いた。
老人は少し間を置いて、「手紙?」と言った。「そういう習慣は聞いたことがない」という答えだった。集落の人たちはみんな顔見知りだから、他所の家に黙って手紙を入れるようなことはしない、と。
念のため、他にも二、三人に聞いたが、同じ答えだった。誰も知らなかった。
その翌々日、三度目の停電があった。
今度は深夜に起きた。午前一時を過ぎた頃、眠れずにいた俺は、暗い居間でスマートフォンをいじっていた。停電になったのはそのときで、スマートフォンのバッテリーも残り少なくなっていた。
一時間ほどして、電話が鳴った。固定電話だった。
祖父の家には、古い型の固定電話がそのまま残っていた。停電中でも電話回線が生きていれば鳴ることがある。だが、この家の番号を知っている人間が今の時代にいるとは思っていなかった。
受話器を取ったが、誰も出なかった。しばらくして切れた。
俺はそのまま眠れなくなった。夜明けごろになってようやくうとうとして、朝に起きると停電は復旧していた。固定電話の子機のランプを見ると、留守電が一件入っていた。
着信は深夜の一時五十分。俺が電話に出た時刻とほぼ一致していた。だとすると、俺が受話器を取ったときに誰かが喋っていたはずなのに、俺には何も聞こえなかった。
再生した。
最初の数秒は無音だった。それからかすかに音が入った。風の音のようでもあり、遠くで誰かが話しているようでもある、低くて不明瞭な音だった。その後、少しだけはっきりした音が来た。
「……もどってから、……たずねてください」
それだけだった。声は男か女かも判別できなかった。続きはなく、また無音になって、録音は終わった。
「もどってから」というのが誰に対して言われたのか、「たずねてください」というのが何を指しているのか、わからなかった。俺宛てのメッセージなのかどうかも確信が持てなかった。もしかしたら、以前からこの番号にかかってきていた、祖父や祖母宛ての電話だったのかもしれない。
その日の午後、郵便受けを確認すると、また白い封筒があった。
停電でもなく、夜でもない、昼間に届いていた。
今度こそ怖くなった。誰かがずっとこの家を見ていて、こちらの動きに合わせて手紙を入れているとしか思えなかった。
開けた。便箋に書かれていたのは、一言だった。
「おじいさんによろしく伝えてください」
俺は封筒を持ったまま、しばらく縁側に座っていた。祖父は春に死んでいる。それを知っていて書いたのか、知らないで書いたのか。知っていて書いたなら、それはどういう意味なのか。
その日の夕方、母に電話して、固定電話の番号を誰かに教えていないか、祖父の知り合いで心当たりがないか聞いた。母は「特に思い当たらない」と言った。祖父は晩年ほとんど外出しなくなっていたから、集落の外に付き合いのある人間はほぼいなかったはずだ、とも言った。
荷物の整理が終わったのは、それから三日後だった。その間、停電はなく、手紙も届かなかった。留守電も増えなかった。
最終日、家を出る前に郵便受けを確認した。空だった。
鍵を閉めて、車に乗った。集落の入り口で振り返ったとき、川沿いの道の向こうに人影が見えた。こちらを向いて立っているように見えた。距離があって顔はわからなかった。しばらく見ていたが、動かなかった。俺が車を発進させると、バックミラーから消えた。
家に帰ってから、留守電の録音をもう一度聞いた。「もどってから、たずねてください」という部分を何度も聞き返した。
もどってから、たずねてください。
誰に。何を。
わからない。
手紙は三通とも手元にある。見返すたびに、同じことを考える。宛名のない手紙を書いて、名前も告げずに夜の郵便受けに入れていったのは誰なのか。俺のことを知っていて、俺の行動を見ていて、それでも一度も姿を見せなかった人間が、集落のどこかにいたということなのか。
あるいは、人間ではなかったのか。
そこから先は、俺には考えることができない。
ただ記録だけ残しておく。

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