引っ越したばかりのアパートで、飼い猫がある一点をじっと見つめるようになった。最初は気のせいだと思っていた。でも、猫が見ていたのは「何もない場所」ではなかったのかもしれない。
うちの猫の名前はムギという。麦わら色の雑種で、拾ったときはてのひらに乗るくらいの大きさだった。もう七年になる。
ムギは臆病な猫だ。来客があるとすぐ押し入れに潜って、しばらく出てこない。窓の外で鳥が鳴いても、見に行くより先に体を丸める。そういう猫だから、引っ越したときも相当ストレスをかけてしまったと思う。
引っ越したのは、仕事の都合だった。県境に近い町の、築二十年ほどのアパートの二階に越したのが、ちょうど去年の春のことだ。1LDKで、日当たりはそれほどよくないけれど、家賃が安くて管理会社の対応もよかった。内見したとき、特に気になるところもなかった。
ムギは最初の三日間、ほとんどキャリーバッグの中から出てこなかった。それも想定内だったから、あまり無理に出さずに、ごはんとトイレだけ整えて、あとはそっとしておいた。
四日目の朝、起きたらリビングにムギがいた。探検を始めたんだな、と思って、そのまま出勤した。
ムギの様子が気になりはじめたのは、越してから二週間くらい経ったころだった。
その日は在宅で仕事をしていた。夕方の五時ごろ、ふと気配がしてリビングに目をやると、ムギが部屋の隅をじっと見ていた。
部屋の隅、というのは、玄関から入って左手、ちょうどリビングと廊下の境目あたりにある、何もない壁のコーナーのことだ。棚も置いていないし、観葉植物も置いていない。本当に何もない、白い壁が交わるだけの場所。
ムギはそこを、微動だにせず見つめていた。
猫がそういうことをするのは、珍しくない。虫がいるとか、外の音がどこかから聞こえているとか、理由はいくらでもある。私はそのまま仕事に戻って、特に気にしなかった。
翌日も、その翌日も、ムギはその隅を見ていた。
だんだん気になってきて、ムギが見ている間に自分もそこをじっくり観察してみたけれど、何も見えなかった。壁紙に虫が止まっているわけでも、隙間風が入っているわけでもなさそうだった。床を這う虫の影もない。
ただ、ムギの目だけが、確かにそこを捉えていた。
私は猫の動体視力や感覚が人間より鋭いことは知っている。見えているものが私に見えていないだけかもしれない、と思うことにして、それ以上は考えないようにした。
一ヶ月が経った。
ムギは毎日あの隅を見ていた。時間帯はまちまちだった。朝のこともあったし、深夜に私が目を覚ましてリビングに水を飲みに行くと、薄暗い中でムギがあの場所を見ていることもあった。
見ている時間も、少しずつ長くなっていた。最初は五分か十分程度だったのが、気づけば三十分、一時間と続くようになっていた。しかもその間、ムギはほとんど動かない。尻尾も動かない。耳だけが、ときどきぴくっと動く。
猫が何かに興味を持っているときの動き方とは、少し違う気がした。
ムギが獲物を狙うときは、体をぴんと張って、目が細くなって、尻尾の先だけがゆっくり揺れる。あの隅を見るときはそうじゃない。体の力が抜けていて、目は大きく開いていて、ただそこを、受け止めるみたいに見ている。
何を、受け止めているんだろう。
そのころから、私も少し変になっていたのかもしれない。あの隅が気になって、仕事中もときどきそちらを見るようになった。もちろん何もない。白い壁が交わっているだけ。でも、なんとなく、視線を外すのが少し怖かった。
六週目のある夜、ムギがはじめて声を出した。
私はソファで本を読んでいた。深夜の十二時前後だったと思う。ムギがあの隅の前に座って、例によってじっと見ていた。私も慣れてきて、あまり気にしていなかった。
そのとき、ムギが低い声で鳴いた。
「うー」というような、威嚇するときの声だった。でも、警戒しているというより、どこか悲しそうな鳴き方に聞こえた。私はびっくりして本を置いた。ムギは振り返らず、あの隅を向いたまま、もう一度同じ声を出した。
「ムギ、どうした」
声をかけたら、ムギはゆっくり振り返ってこちらを見た。何かを訴えているような目をしていた。でもそれが何なのか、私には分からなかった。
ムギを抱き上げて、寝室に連れていった。その夜は二匹でベッドで寝た。
翌朝、起きてリビングに行くと、ムギはまたあの隅の前にいた。
そのとき、ふと気づいたことがあった。
ムギが見ている場所の、ちょうど床との境目あたり、巾木の端に、薄い傷があった。壁紙ではなく、木の部分に。細い線のような傷が、三本、横に並んでいた。
最初からあったのかもしれない。でも、内見のときには気づかなかった。
何かで引っかいたような跡だった。ネコの爪の跡、と言われればそうかもしれない。でもそれにしては、少し位置が高かった。巾木の上端ぎりぎり、床から十センチほどのところ。うちのムギが付けたとしたら、後ろ足で立ち上がって、かなり上の方を引っかいた計算になる。
私は管理会社に連絡して、入居前のクリーニング記録と、前の入居者についてざっくり聞いてみた。クリーニングは業者が入っていて、傷については「もともとあったものかもしれない、気になるなら修繕します」と言われた。前の入居者については、個人情報になるから詳しくは言えないが、長く住んでいた方だったとだけ教えてもらった。
それから、どのくらい住んでいたか聞いたら、「十年ほどです」と言われた。
一人だったんですかと聞いたら、少し間があって、「確認してからまたご連絡します」という返事だった。その後、その件についての折り返しはなかった。
ムギはそれからも毎日あの隅を見ていた。
私はある日、試しにあの隅に向かって声をかけてみた。誰もいないと分かっていながら、バカみたいだと思いながら、それでも。
「もし、誰かいるなら、ムギを怖がらせないでください」
ムギは私の隣に座って、一緒にあの隅を見ていた。しばらくして、ムギがそっと私の足に頭をすりつけた。
それだけのことなんだけど、なぜか少し泣きそうになった。
あれから三ヶ月が経つ。
ムギは今もあの隅を見ている。でも最近、少し様子が違う。見つめる時間が、また少し短くなってきた。威嚇するような声も、あの夜以来出していない。なんとなく、見ているというより、確認している、みたいな感じに変わってきた気がする。
気のせいかもしれない。
先週、夜遅くに帰ってきたとき、玄関を開けたらムギが出迎えてくれた。それはいつもの話なんだけど、そのとき、ふとあの隅に目がいった。
暗い部屋の中に、ムギの目だけが光っていて、でもムギは私の方を向いていて、あの隅は、久しぶりに誰も見ていなかった。
なんとなく、あの傷のことを思った。三本の細い線。前の入居者が、十年いた部屋に残していったもの。
それが誰のものなのか、私にはまだ分からない。ムギだけが知っているのかもしれないし、ムギにも分かっていないのかもしれない。
ただ、今夜もムギはあの隅の前に座って、耳だけをぴくぴくと動かしながら、私には見えない何かを、じっと見ている。


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