毎晩、知らない声に名前を呼ばれる話

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毎晩同じ夢を見るようになった。暗い場所で、知らない誰かが自分の名前を呼ぶだけの夢。ある日、その声が夢の外まで追いかけてきた。

最初に夢を見たのは、去年の秋口だったと思う。

その頃わたしは、職場の異動があったり、一人暮らしをはじめて間もなかったりで、とにかくいろんなことが一度に動いていた時期だった。眠れない夜が続いていたから、夢を見るようになったのもそういうストレスのせいだと、最初はそう思っていた。

夢の内容はいつも同じだった。

どこかの廊下、ではなくて、廊下よりももっと細くて、もっと長い、なんというかトンネルみたいな空間の中に立っている。足元はコンクリートの感触があって、壁は木だった。古い木の壁で、ところどころ板が浮いている。天井はほとんど見えない。明かりは遠くのほうにぼんやりあるだけで、自分の手すら、ちゃんと確認できないくらい暗い。

その空間の、奥のほうから声がする。

「……きこ」

たった二文字か三文字、そのくらいの短さで、わたしの名前を呼ぶ。

わたしの名前は「あきこ」という。だから「……きこ」というのは、名前の後ろの部分だけが聞こえている、という感じがする。前が切れていて、ちゃんと聞こえない。でも確かに、わたしを呼んでいる。

声は男でも女でもなくて、高くも低くもない。年齢もわからない。ただ、どこかひどく疲れたような、くぐもった声だった。

毎晩、その声で目が覚める。

目が覚めた瞬間、部屋は真っ暗で、時計を見るといつも午前二時から三時の間だった。時間帯まで同じだった。体が汗ばんでいて、胸のあたりがざわざわと落ち着かない。でもそれ以上のことは何もなくて、しばらくすればまた眠れた。

最初の二週間くらいは、繰り返す夢というのはよくあることだと思って、あまり気にしていなかった。

ところが、一か月が経ち、二か月が経っても、夢は変わらなかった。同じ空間、同じ声、同じタイミング。まるで毎晩同じ場面を再生されているみたいだった。

気になりはじめたのは、夢の中でわたしの行動が少しずつ変わっていることに気づいてからだと思う。

最初は、声がしても動けなかった。金縛りというほどでもないけど、足が重くて、その場から動こうという気が起きなかった。ただそこに立って、声を聞いているだけだった。

でも、夢を繰り返すうちに、わたしは少しずつ、声の方向に歩きはじめていた。

夢の中の自分がそうしたいと思っているのか、それとも誰かに引っ張られているのか、その区別がつかなかった。ただ気づいたら、足が動いていた。一歩、また一歩。声に向かって、その暗いトンネルの奥に向かって。

声はそのたびに、少し近くなる気がした。

「……きこ」

同じ呼び方で、でも少しだけ、遠くなく。

わたしがどこまで歩いたか、夢の中ではわからない。気づくと目が覚めていて、また同じ時間、同じ汗ばんだ体で、天井を見上げている。

それが三か月続いたある朝、わたしは職場の同僚に話した。年が近くて、仲のいいひとで、霊感があるとかそういうことではなかったけど、なんとなく打ち明けたくなった。

彼女は話を聞いて、「気持ち悪いね」と率直に言った。それから少し考えるような顔をして、「声、なんて言ってるの?」と聞いた。

「名前。わたしの名前の一部だけ」

「一部って?」

「後ろ半分だけが聞こえる感じ。前が途切れてるみたいで」

彼女はそこで少し黙った。それから「録ってみたら?」と言った。スマホを枕元に置いて、夜中に録音しておくといい、と。もしかしたら声が入るかもしれないし、入らなかったとしても、自分で聞き直すと何か気づくことがあるかもしれない、と。

笑い飛ばしてくれると思っていたから、その提案は少し意外だった。でも、何もしないよりはいいと思って、試してみることにした。

その晩から、眠る前にボイスレコーダーのアプリを起動して、枕の横に置くようにした。

最初の三日間は、録音を聞いても何もなかった。空調の音と、自分の寝息と、外を通る車の音だけ。声はなかった。

四日目の朝、目が覚めたときに、また夢を見ていた。また声を聞いていた。いつもと同じだったから、録音を確認する前に少し迷った。どうせ何もないだろうと思っていたから。

でも再生してみると、午前二時四十分あたりで、録音が変わった。

空調の音が消えた、というわけではなかった。ただ、そこだけ全体の音が薄くなる感じがあって、その中にはっきりと、何かが聞こえた。

声、ではなかった。

息だった。

誰かが、マイクのすぐそばで、ゆっくりと息をしている音。吸って、吐いて、また吸って。それが三回か四回分、録音されていた。わたしの寝息とは違うリズムで、違う間隔で。

それだけだった。声はなかった。名前を呼ぶような音もなかった。ただ、誰かの呼吸音だけが入っていた。

その日は一日中、気分が悪かった。

同僚に音声を聞かせると、彼女は「……これ、外の音とかじゃないの?」と言ったけど、自分でも確信はなさそうだった。窓の外でそんな音が録れるとは思えなかったし、わたし自身、こんな呼吸はしていない。

次の夜も、また録音した。

今度は午前二時五十八分のところに、同じ呼吸音があった。少し間隔が長くなっていた。吸って、止まって、ゆっくり吐く。まるで眠っているひとの、深い呼吸みたいだった。

その頃から、昼間も声が気になるようになった。

夢の中ではっきり聞こえていたはずなのに、起きているあいだ、その声を思い出そうとすると、うまく思い出せない。どんな声だったか、どんな音程だったか、再現できない。なのに、なぜかわたしを呼んでいるということだけは確信があった。

確信、というのも変な言葉だけど、ほかに言いようがない。あれはわたしを呼んでいた。そこだけは揺らがない。

録音をはじめて十日目の朝、夢の内容が少し変わった。

声がいつもより近かった。歩く前から、最初から、すぐそこにいるみたいに近くで聞こえた。

「……きこ」

それから少しの間があって。

「きてくれてる?」

そう聞こえた、気がした。

目が覚めて、録音を確認した。その晩は、呼吸音がなかった。代わりに、夢と同じくらいの時間帯、午前三時ちょうどごろに、一瞬だけ何かがあった。

音量を上げて、イヤホンをして、何度も聞き直した。

「……こえ、てる?」

わたしにはそう聞こえた。でもそれがほんとうにそういう音なのか、雑音がそう聞こえているだけなのか、自分では判断できなかった。

その日の昼休みに、同僚にもう一度聞かせた。

彼女は二回聞いて、イヤホンを外して、わたしに返した。それから真顔で言った。

「これ、名前呼ばれてない?」

わたしは何も答えられなかった。

それから一週間、夢は見なかった。ぴたりと止んだ。声も聞こえなかったし、録音にも何も入らなかった。午前二時や三時に目が覚めることもなくなった。

普通に、ただ眠れた。

おかしなことに、その一週間がいちばん、怖かった。

夢がないということが、夢がある夜よりもずっと不安だった。何かが変わったのか、それとも終わったのか、あるいはもっと別の何かが始まろうとしているのか、何もわからないまま、毎晩ベッドに入るのが怖かった。

一週間が過ぎた夜。

また夢を見た。

同じ場所だった。同じトンネルみたいな暗い空間。足元のコンクリート、木の壁、遠くのぼんやりした明かり。何も変わっていなかった。

でも声は来なかった。

どれだけ待っても、奥からは何も聞こえなかった。

わたしは夢の中で、少し歩いた。声がなくても、足が動いた。暗い奥に向かって、一歩、また一歩。

そして気づいた。

奥のほうに、誰かが立っていた。

顔は見えなかった。シルエットだけ。小柄で、じっとしていて、こちらを向いているのか背を向けているのかもわからなかった。

目が覚めた。

録音を確認した。何も入っていなかった。呼吸音もなかった。声もなかった。

あれから何度か、同じ夢を見ている。奥に誰かが立っている夢を。声はもう聞こえない。わたしはただそこに向かって歩いていて、でも近づいているのかどうかもわからなくて、目が覚めると終わっている。

そのひとが誰なのか、わたしにはわからない。声の主なのか、それとも全然違う誰かなのか。

一つだけ、最近気になっていることがある。

起きているあいだ、ふとした瞬間に、自分の名前が頭の中で響くことがある。誰かが呼んでいるというより、自分で思い出しているみたいな感覚なんだけど、そのたびに、あの夢の暗さを思い出す。

コンクリートの冷たさとか、木の壁の古い匂いとか、そういうものまで思い出す。

夢で見た場所なのに、記憶の手触りがやけにリアルで、なんというか、実際に行ったことのある場所みたいな感じがする。

そこがどこなのか、わからないまま、今もわからないまま、わたしはまた今晩、眠ろうとしている。

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