中堅の印刷会社に勤めていた語り手は、ある日、一年以上ともに働いてきたはずの同僚・田辺さんについて、誰も知らないという事実に気づき始める。記憶と記録の間に生じた、静かで深い断絶の話。
これを話すのは、今回が初めてになる。
当時のことを誰かに打ち明けようとするたびに、うまく言葉にならなくて、途中でやめてしまっていた。怖かったというよりは、自分でもまだ整理がついていないからだと思う。あれが何だったのか、正直いまもわからない。
三年ほど前の話だ。
俺は県境に近い中規模の印刷会社に勤めていた。社員は全部で三十人ちょっと。フロアは二階建てで、一階が印刷と加工の現場、二階が営業・デザイン・進行管理などのオフィスになっている。俺は進行管理部門にいた。
田辺さんと初めて会ったのは、入社から二年目の春ごろだったと思う。
当時の俺の席の斜め前に、ある日突然、デスクが一つ増えていた。正確に言えば「増えた」というか、いつの間にか「そこにあった」という感じで、何の引き継ぎも挨拶もなく、気づいたら田辺さんが座っていた。
背が高くて、細くて、いつも薄いグレーか紺のスーツを着ていた。年齢は三十代の半ばくらい。髪が少し長めで、目が細くて、いつも少し伏し目がちな人だった。声は低いけど穏やかで、話しかけると丁寧に答えてくれた。
仕事ぶりは真面目だった。進行表の管理を担当していたらしく、毎朝早く来て、夕方にはきちんと退社していた。残業をしているところをほとんど見たことがない。昼は自分でつくってきたらしい弁当をデスクで食べていた。
俺は何度か言葉を交わしたことがある。「この件、田辺さんに聞いたほうがいいかな」と思って立ち寄ると、たいてい穏やかに対応してくれた。名前も顔もはっきり覚えている。それだけ日常的に存在していた人だった。
違和感を初めて覚えたのは、その年の秋口だったと思う。
社内でちょっとした人事異動があって、部署の席替えが行われることになった。そのとき、総務の担当者が座席表を作り直す作業をしていたんだが、そこに田辺さんの名前がなかった。
最初はただの入力ミスかと思った。でも確認を求めたとき、担当者は少し困った顔をして、「田辺さん、ってどなたですか?」と言った。
「え、斜め前に座ってる人ですよ。進行管理の」と俺は答えた。
担当者はしばらく考えてから、「うちの部署にそういう方はいないと思うんですが」と首を振った。
さすがにおかしいと思ったが、そのときはそれ以上追及しなかった。忙しい時期でもあったし、何かの行き違いだろうと思いたかったからだと思う。
でも気になって、二、三日後に同じ部署の先輩に聞いてみた。
「田辺さんって知ってますよね」と言うと、先輩は一瞬間を置いてから、「……誰だっけ、それ」と言った。
「斜め前のデスクにいる人ですよ。ずっと座ってるじゃないですか」
先輩はフロアをぐるっと見渡して、「あそこって誰も座ってなくない?」と言った。
俺はそのとき、自分の見ているものが急に不安定になるような感覚を覚えた。ちょうどぐらついたような。でも翌朝会社に来たら、田辺さんはいつも通りそこに座っていた。進行表をパソコンで開いて、何かを確認している。
だから俺は「あ、いる」と思って、それ以上深く考えないようにした。
問題が本格的になったのは、年が明けてからのことだ。
社内でちょっとした接触事故があった。会社とは別の話だが、取引先のスタッフが来社したときに駐車場で車をこすったとかで、その対応のための記録を社内で照合することになった。その日、該当の時間帯にフロアにいたスタッフ全員のリストをつくる、というような作業があった。
俺は自分の名前と一緒に田辺さんの名前も挙げた。そのとき、上司が「田辺? 誰それ」という顔をした。俺が「進行管理の田辺さんです、ずっとあの席にいる」と言うと、上司は少し神妙な顔になって、「お前、最近ちゃんと寝れてるか」と言った。
その言い方が妙に引っかかった。「ちゃんと寝れてるか」という確認の仕方ではなく、どちらかというと、俺を心配するというよりも、「この話はここで終わりにしよう」という切り上げ方に見えた。
そのあとから俺は、意識的に田辺さんのことを観察するようにした。
気づいたことをいくつか書く。
まず、田辺さんはほかの社員と会話しているところを、俺は一度も目にしていなかった。俺自身は何度か話しかけたし、返事もあった。でも振り返ってみると、誰かが田辺さんに声をかけているのを見た記憶がない。
次に、田辺さんのデスクに電話が鳴っているのを聞いたことがない。俺のいた部署ではほかの人はわりと電話を受けていたのに。
それから、田辺さんが席を立って、どこかに移動したあとの席を、俺は一度も追いかけなかったことに気づいた。トイレに行くとか、給湯室に行くとか、そういう場面を俺は見た気がしていたのに、よく考えたら、立ち上がるところまでしか見ていない。
決定的だったのは、三月の終わりのことだ。
俺は総務に行って、社員名簿を見せてもらった。当然ながら、田辺という名前はどこにもなかった。派遣やアルバイトのリストも確認させてもらったが、同様だった。
「外部の委託スタッフって、名簿に載らないことってありますか」と聞くと、総務の人は「基本的にはないですね、セキュリティ的にも管理しないといけないので」と言った。
その日の帰り道、俺はずっと考えていた。
田辺さんは確かにいた。俺は話しかけた。返事があった。声を覚えている。仕事のことをやりとりした記憶がある。顔もわかる。でも誰も知らない。記録もない。
一つの可能性として、俺が何かを誤認していたんじゃないかと思った。記憶違いや、思い込みで人物を「いる」と信じていたとか。でも俺は何度も言葉を交わしている。それだけはずっと確かだと感じていた。
翌年の春、俺はその会社を辞めた。転職の理由はほかにもいくつかあって、田辺さんのことだけが原因ではない。でも、この件を引きずっていたのは間違いなかった。
辞める直前、フロアを最後に見渡したとき、斜め前のデスクには何もなかった。もともと誰も使っていなかったかのように、きれいに片付いていた。
それだけなら、俺の見間違いや思い込みで済んでいたかもしれない。
でも一つだけ、今でも説明がつかないことがある。
田辺さんと話したとき、内容の一つに、「来週の進行スケジュールをどこかに控えてもらえますか」という俺からのお願いがあった。そのとき田辺さんは、「わかりました、メモしておきます」と言った。
翌朝、俺のデスクの上に、そのスケジュールが丁寧な字で書かれた付箋が貼ってあった。
その付箋は今も、引越しの荷物のどこかに紛れ込んで残っている。たまに出てくるたびに、俺は引き出しの奥に押し込む。
誰かが書いたことは間違いない。字がある。紙がある。インクがある。
でもその人のことを、誰も覚えていない。
あの付箋を書いたのが誰なのか、俺にはいまだにわからない。


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