引っ越し初日から、玄関に知らない靴が増えていた。誰も入った形跡はなく、ドアには鍵がかかっているのに。
あの部屋に引っ越してきたのは、二十六歳の秋のことだった。
仕事の都合で急きょ住む場所を探す必要が出て、条件も予算もあまり選べなかった。見つかったのが、県境の町にある古い集合住宅の一室だった。築三十年以上のそこはエレベーターもなく、三階まで外廊下の階段を上がる造りで、正直なところ第一印象は良くなかった。でも家賃が相場よりかなり安く、当時の私には他に選択肢がなかったから、即日で契約を決めた。
管理人のおばあさんが一階に住んでいて、鍵を受け取るときに少しだけ話をした。感じのいい人だったが、最後にひとつだけ妙なことを言われた。「ここはみんな、長く住まないから」と。理由は教えてくれなかったし、私も深く聞かなかった。そういうものだと思った。古い物件はどこも入れ替わりが早いのだろうと。
荷物を運び終えたのは夜になってからで、段ボール箱を適当に積み上げて、その日はそのまま眠った。布団も出していなかったので、コートをかけてフローリングの上で丸くなった。
翌朝、目が覚めて最初に向かったのが玄関だった。段ボールを開けるより先に、顔を洗いに行こうとしたのだと思う。なんとなく玄関の方を通り過ぎたとき、ふと目に入った。
靴があった。
私の運動靴の隣に、見覚えのない黒いパンプスが一足、きちんと揃えて置いてあった。サイズは私と同じくらいに見えた。踵が少し擦れていて、長く使い込まれた感じがした。
最初は引っ越しのバタバタで、誰かが間違えて置いて行ったのかと思った。手伝いに来てくれた友人は男で、靴のサイズも全然違う。それでもそういう合理的な説明を探して、とりあえず隅にどかして、その日は仕事に出た。
帰ってきたとき、靴はそのままそこにあった。
翌朝、また一足増えていた。今度は薄いベージュのフラットシューズで、底に砂がついていた。どこかを歩いてきたような汚れ方だった。私の部屋は三階の端で、外廊下の突き当たりにある。通り道ではないし、不審者が入ってきたとしても、鍵は毎晩必ず確認していた。チェーンも閉めていた。
警察に相談しようかとも思った。でも何を言えばいいのかわからなかった。「靴が増えています」と言っても、それだけでは何もできないのはわかっていた。代わりに管理人のおばあさんに話してみた。玄関のドアを開けて見せながら説明すると、おばあさんはしばらく黙ってから、「前の入居者の忘れ物かもしれないね」と言った。それだけだった。目が少しだけ泳いだように見えたのは、気のせいだったかもしれない。
捨てることにした。ゴミ袋に入れて、外のゴミ置き場に持って行った。靴は二足あったから、処分したはずだった。
次の朝、また一足あった。
今度はサンダルだった。鼻緒の部分が白くて、夏物だった。もう十月だというのに、そのサンダルは真新しくて、底に汚れひとつなかった。まるで買ったばかりのような状態で、私の靴の横に揃えてあった。
このあたりから、私は日付と靴の状態をメモし始めた。スマートフォンのメモアプリに、毎朝起きたときに確認したことを書き留めた。日付、靴の種類、状態、私が処分したかどうか。そうしないと自分の記憶が信じられなくなりそうで、記録を残すことにした。
メモを見返すと、靴は毎朝ではなかった。三日連続で増えることもあれば、一週間何もない日もあった。規則性はなかった。ただ、確実に増えていた。私が処分してもまた現れた。一度だけ、処分せずに靴箱に入れてみたことがある。翌朝その靴は靴箱の中にあり、玄関には別の靴が新しく置かれていた。
一ヶ月が過ぎた頃、部屋に泊まりに来た友人の加奈に話した。彼女は笑い飛ばすかと思ったが、意外と真剣な顔で聞いていた。「一緒に確認しよう」と言って、その夜は二人でいた。朝になって、玄関を一緒に見た。加奈の靴とブーツと、私の靴と、それから見覚えのない茶色のローファーが一足あった。加奈は顔色を変えて「これ、あたしが昨夜ここに持ってきた靴じゃない」と言った。私たちは二人とも、その靴に触れなかった。
加奈が帰ってから、私はもう一度だけ靴をよく観察してみた。茶色のローファーを手に取ったのは、そのときが初めてだった。裏返してみると、底の形が妙だった。つま先の方だけが不自然にすり減っていて、踵はほとんど減っていなかった。歩き方のクセというより、まるで踵をつかずに移動しているような、そういう消耗の仕方だった。
気持ち悪くなって、またゴミに出した。
その夜、眠れなかった。布団の中で天井を見ながら、ふとあることが気になった。靴が玄関に置いてある。それは確かだ。でも、靴だけだ。鞄はない。傘もない。コートも上着も引っかかっていない。誰かが部屋に来ているとしたら、あまりにも手ぶらすぎた。
十一月の終わりに、隣の部屋の住人と廊下で会った。引っ越してから初めて顔を合わせた人だった。三十代くらいの男性で、会釈だけして通り過ぎようとした私に、向こうから声をかけてきた。「隣に引っ越してきた方ですよね」と言って、少し声を落とした。「変なこと、ありませんでしたか」と。
驚いて聞き返すと、彼は少し迷ってから話してくれた。この部屋の前の入居者も、その前の入居者も、みんな半年以内に出て行ったこと。理由は誰も言わなかったけれど、出て行く前はみんな似たような顔をしていたこと。「疲れたような顔、というか、何かを諦めたような顔」と彼は言った。そして、これは聞いた話だからと前置きして、こう続けた。「この棟ができる前、ここには古い家があって、その家の人が残っているって、管理人のおばあさんが昔に言っていたらしいんです」。
私は何も言えなかった。
その日の夜、玄関を確認した。私の靴だけがあった。他には何もなかった。翌朝も、その翌朝も。靴は現れなかった。
三日が過ぎて、一週間が過ぎた。私はすこしだけ安堵して、気のせいだったのかもしれないと思い始めた。隣の人から聞いた話も、ただの噂話かもしれない。管理人のおばあさんは高齢で、記憶が混ざっているだけかもしれない。
そう思いながら、ある朝、靴を履こうとして気がついた。
私のスニーカーの踵が、擦れていた。いつもと違う場所が。つま先の方だけが、妙にすり減っていた。
買ったばかりのスニーカーだった。まだ二週間しか履いていないはずだった。踵は綺麗なままで、先だけがこんなに削れるはずがなかった。私はその靴を手に取って、裏返して、しばらくの間ただ見つめていた。
玄関には、私の靴しかなかった。
何かに気がつきそうで、でも気がつきたくなくて、私はそのまま靴を履いて、仕事に出た。その日の夜にメモを開いたら、最後に自分が書いた一文が目に入った。
「今朝は何もなかった。たぶん終わった」
日付は一週間前で、私はその一文の下に、何も書いていなかった。七日間、メモをつけていなかった。その七日間に、自分がどんな朝を過ごしていたのか、うまく思い出せなかった。
私がその部屋を出たのは、翌月のことだった。
理由を聞かれると、なんとなく落ち着かなくて、とだけ答えている。それ以上うまく説明できないし、今でも何が起きていたのかは分からない。ただひとつだけ、今も気になっていることがある。
引っ越し先で新しく買い直したスニーカーが、少しずつ、つま先から擦れていくことだ。

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