隣の部屋に灯りが点いている

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空室のはずの隣の部屋に、毎晩決まった時間に灯りが点く。管理会社は「入居者はいない」と繰り返すが、灯りは確かに見える。じわじわと積み重なる違和感の先に、男が気づいたのは自分の部屋のことだった。

そのマンションに引っ越してきたのは、三十二歳の春のことだった。

職場の近くで家賃が安くて、駅からも十分歩けば着く。特別に気に入ったわけではなかったけれど、いくつか候補を見て回ったなかで一番条件が揃っていた。築十八年の三階建て、一Kのその部屋は、南向きの窓から午前中だけよく陽が入って、正直それだけで決めたようなものだった。

引っ越しを終えた日の夜、ベランダに出て煙草を吸っていたとき、隣の部屋の窓が目に入った。

部屋の配置の都合で、うちのベランダから隣の窓がちょうど斜めに見える。カーテンが閉まっていて、その向こうにうっすら灯りが滲んでいた。

ああ、隣は入居者がいるんだな、と思った。それだけだった。

ところが翌日、郵便受けに鍵を取りに来た管理会社の担当者と少し立ち話をしたとき、ふとその話を出してみた。隣の方はいつ頃から住んでいるんですか、と。

担当者は首を傾げた。

「隣の二〇四号ですか。あちらは空室ですよ。もう半年ほど入居者がいません」

そう言われれば、確かに郵便受けに名前は入っていなかった。部屋を決める内見のときも、隣が空室だという話は聞いた気がする。あのときは気にも留めなかったけれど。

あの灯りは何だったんだろう、と思いながら、そのまま忘れた。引っ越しの疲れで余計なことまで気になっていたんだろう、と。

それで済んでいれば、こんな話を書くことはなかった。

灯りが点いたのは、その翌晩のことだった。

夕食を終えてしばらくした頃、何となくベランダに出た。時刻は夜の九時過ぎだったと思う。煙草に火をつけながら何気なく隣の窓を見ると、カーテンの向こうに橙色の灯りが滲んでいた。前の晩と全く同じように。

引っ越してきたばかりで部屋の中をよく把握していなかっただけで、実は入居者がいるんじゃないか。管理会社が把握していないとか、そういうことは別にあり得る話だろうと思った。煙草を吸い終えて部屋に戻り、その夜はそれで終わった。

一週間が過ぎた。

灯りは毎晩点いた。時刻を意識するようになったのは四日目か五日目くらいからで、確認してみると決まって九時から十時の間に灯りが見えていた。誰かが住んでいるなら、それ自体は不思議でも何でもない。だけど管理会社は空室だと言っていた。

気になった。

ある朝、少し早めに家を出て、二〇四号のドアの前で立ち止まってみた。郵便受けに何も入っていない。表札は当然ない。ドアの前に靴も傘立ても置いていない。外から見る限り、どう見ても誰も住んでいないような部屋だった。

管理会社に電話してみた。

「二〇四号が空室なのは間違いないですか」

担当者は少し間を置いて、「ええ、間違いございません」と答えた。「定期的に清掃に入っていますが、入居の予定は現在のところないです」

じゃあ毎晩あの窓に見える灯りは何なんですか、と聞こうとして、やめた。何となく、うまく説明できない気がしたし、妙な住人だと思われたくもなかった。

ありがとうございます、と言って電話を切った。

二週間が経った頃から、俺は灯りの時刻を正確に記録し始めた。スマートフォンのメモアプリに、日付と時刻を書き留めていった。几帳面な性格ではないんだけれど、何かに書き留めておかないといられなくなっていた。

記録を見ると、灯りが見え始める時刻は九時十分から十五分の間にほぼ収まっていた。消える時刻は十時半前後。一時間強、灯りは点いて、それから消える。雨の夜も、風の強い夜も、変わらなかった。

ある夜、灯りが点いている時間に隣の部屋のドアを叩いてみた。返事はなかった。ドアに耳を当てても音一つ聞こえなかった。廊下から見ている限り、ドアの下の隙間に光は漏れていない。灯りはベランダ側の窓だけに見えた。

その事実がなぜか、ひどく気味悪かった。

ちょうどその頃、職場の同僚に話してみた。三つ年上の先輩で、怖い話やオカルト的なものに詳しいわけじゃないけど、話しやすい人だった。

「それ、管理会社の人間が内部で使ってるんじゃないの。荷物の保管とか、作業の拠点とか」

「夜の九時過ぎから十時半に?」

「……そう言われるとちょっとおかしいな」

先輩は少し考えてから、「まあ、気になるなら引っ越せばいいじゃないか」と言った。

そんな話ができるほど余裕はなかったし、引っ越したばかりだった。

一ヶ月が過ぎた頃、俺は気づいてしまった。

それまで灯りを「見る」のはベランダに出たときだけだったんだけれど、ある夜、部屋の中の窓際に立ったとき、視界の端に隣の窓が入った。灯りが点いていた。

それ自体は別に新しいことじゃない。だけどそのとき、俺はふとあることを思った。

俺が隣の窓の灯りに気づいたのは、引っ越してきた最初の夜だった。

あの夜、俺はベランダに出て煙草を吸っていた。それで隣の窓が見えた。

だけど、俺はそれ以前から、「隣の窓」の存在を知っていたか?

内見のとき、俺はベランダに出たか。

記憶を辿ろうとした。不動産会社の担当者に案内されて、南向きの陽射しを確認して、窓を開けた気がする。だけどベランダに出たかどうか、よく思い出せない。

それだけなら別にどうということもない。問題はそこじゃない。

俺がおかしいと思ったのは、もっと単純なことだった。

あの夜、俺はベランダに出て、隣の窓を「斜めに」見た、と書いた。斜め、というのは、うちのベランダが隣の部屋の窓よりも手前に張り出しているからで、位置の関係上、斜め越しに隣が見える、ということだった。

だけど、考えてみると、それは変じゃないか。

マンションの間取りは横並びのはずだ。隣の部屋は同じ廊下に面していて、ドアも横に並んでいる。だとしたら、ベランダも横に並ぶはずで、斜めから見える理由がない。

そう思って、翌朝、外から建物を見上げてみた。

二〇三号、つまり俺の部屋のベランダと、二〇四号のベランダの位置を確認した。

並んでいた。普通に横に並んでいて、斜めになどなっていなかった。

じゃああの窓はどこから見えていたのか。

ベランダに出て、同じように隣を確認した。確かに見える。カーテンの引かれた、橙色の灯りが滲む窓が。

斜め、というのは俺の思い込みだったのかもしれない。実際に見ると、それほど斜めでもない気がした。だけど、「斜めに見える」という感覚は確かにある。窓の角度が微妙に違うのか、それとも俺の視覚に何か歪みがあるのか。

そのくらいのことで深く考えるのをやめた。

ところが、その日の夜から、少しだけ様子が変わった。

灯りが点く時刻が変わったのだ。

それまで九時十分から十五分の間だったのに、その夜は八時五十分に点いた。翌日は八時四十分。その翌日は八時半。記録を見ると、三日に一度くらいのペースで、灯りが点く時刻が少しずつ早まっていた。

最初は誤差の範囲だと思っていた。だけど記録は正直だった。

一ヶ月半が経つ頃には、灯りは夜の七時台に点くようになっていた。消える時刻も、少しずつ遅くなっていた。

俺はある夜、灯りが点いている時間にもう一度だけ隣のドアを叩いた。

返事はなかった。

そのとき、背後から誰かの足音が聞こえた気がして振り返ったが、廊下には誰もいなかった。階段の方に目をやったが、人影もなかった。

俺は部屋に戻って、記録を見返した。

そのとき初めて、別のことに気づいた。

俺が灯りを「確認している」のは、決まって俺が夜にベランダへ出たとき、あるいは窓際に立ったときだった。灯りが点いているのを確認するたびにメモをしているわけで、それ以外の時間帯に灯りが点いているかどうか、俺には確認する手段がない。

つまり、灯りが点く時刻が「早まっている」のか、それとも、俺がベランダに出る時刻が「早まっている」だけなのか。

記録を見直した。確かに、灯りを確認した時刻が早くなっている。だけどその前に、俺がベランダに出た時刻も同じように早まっていた。

俺は毎晩、少しずつ早い時刻にベランダへ出るようになっていた。無意識に。

それに気づいた瞬間、ひどく嫌な感じがした。

理由がうまく言えない。灯りに引っ張られているのか、それとも俺の生活リズムが自然に変わっただけなのか、判断できない。どちらとも言えるし、どちらとも言えない。

あれから三ヶ月以上が経った今も、俺はそのマンションに住んでいる。

二〇四号に入居者が現れたという話は、一度も聞いていない。管理会社に再度確認したときも、「空室です」という答えは変わらなかった。

灯りは今も点いている。今は夜の六時台に点くようになった。消えるのは深夜に近い時刻になっている。

俺がベランダに出る時刻も、それに合わせるように早まっている。

昨日の夜、煙草を吸いながら隣の窓を眺めていて、ふと気になって自分の部屋の窓を振り返った。

カーテンを開けたままにしていた。

部屋の中の灯りが外に漏れていた。

もし誰かがこの建物の外から俺の部屋を見上げたなら、橙色の灯りが滲んでいる窓が見えるだろう。

それが何を意味するのか、俺にはわからない。

ただ、一つだけ確かめたいことがある。

俺の部屋の灯りも、誰かに毎晩記録されているんだろうかと、そればかりが気になっている。

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