団地の郵便受けに届いた手紙の記録

Uncategorized

実家の団地に帰省した数日間、郵便受けに宛名のない手紙が届き続けた。誰も差し出していないのに、手紙は確実に増えていった。

これは記録として残しておく。

怖い話として書くつもりはなかった。ただ、整理しないまま頭の中に置いておくと、少しずつ形が変わっていく気がして、ここに書くことにした。

二年ぶりに実家へ帰省したのは、四月の中頃だった。年度が変わって有休が取りやすくなったこと、母から「庭木の剪定を頼んでいた業者がキャンセルになった」と連絡が来たこと、その二つが重なって、平日に数日もらうことにした。

実家は県境の小さな町にある団地で、私が生まれる前から建っている。五階建ての棟が四本並んでいて、一階には自転車置き場と郵便受けの列がある。子どもの頃は当たり前の景色だったけれど、久しぶりに戻ってみると、コンクリートの黒ずみや、ところどころ剥がれかけた外壁の塗料が、妙に目についた。

母はあいかわらず元気で、帰った初日の夜は二人でテレビを見ながら遅くまで話した。父は三年前に亡くなっていて、それからずっと母一人だ。広さはそれほどでもないが、一人で暮らすには少し持て余すくらいの間取りで、使っていない部屋には私の昔の荷物が段ボールのまま積まれていた。

翌朝、母に頼まれて郵便受けを確認しに行った。団地の一階まで降りて、ずらっと並んだ受け口の中から、うちの番号のものを開ける。電気料金の請求書と、スーパーの折込チラシが入っていた。

それだけのはずだった。

奥をもう少し覗いてみると、細長い封筒がもう一通、立てかけるように入っていた。チラシに隠れていたのだと思う。手に取ってみると、ずいぶん薄い封筒で、切手は貼ってあるが、宛名がない。消印もなかった。

表面は真っ白で、何も書かれていない。裏も同じだった。

差し出し人も、宛先も、何もない。

誤配かと思って隣の受け口を見たが、施錠されていて確認できなかった。母に見せると、「何かしら」と言いながら封を開けた。中には便箋が一枚入っていて、こう書いてあった。

「よく眠れていますか」

それだけだった。

差し出し人の名前も、宛先の名前も、続きの文章もない。ただ、その一文だけが、便箋の中央に丁寧な手書きで書かれていた。

母は「変な人もいるわね」と笑ったが、私は少し気持ち悪かった。母宛の嫌がらせか、それとも単純な誤配か。でも宛名がないのなら、誰宛てということにもならない。管理組合に届けようかとも思ったけれど、結局そのまま手元に置いた。

翌日は平日の真昼で、母は週に何度か通っている地域の体操教室に出かけていた。私は一人で家にいて、押し入れから段ボールを引っ張り出したり、庭木の様子を見たりしていた。昼過ぎに、また郵便受けを確認しに行った。午前中に母が一度見ていたはずだったが、業者から書類が届く予定があると言っていたので、念のためと思ったのだ。

受け口を開けると、また入っていた。

同じような封筒だった。薄くて白い、長形の封筒。切手が貼ってあるが、消印はない。宛名もない。

手が少し止まった。

開けてみると、また便箋が一枚。今度はこう書いてあった。

「昨日より、少し寒くなりましたね」

昨日より、という言葉が引っかかった。確かに、その日は前日より気温が低かった。でも、そんなことは誰でも書ける。季節の変わり目だから、誰かが書いたとしてもおかしくない。

ただ、誰が。誰に向けて。

私はしばらく郵便受けの前に立っていた。平日の真昼の団地は、驚くほど静かだった。自転車置き場に風が通って、錆びた金属の音がした。人の気配がまるでない。

母が帰ってきてから話すと、今度は少し表情が変わった。「二日続けて?」と言って、封筒を手に取ってしばらく眺めた。「管理人さんに持っていきましょうか」と私が言うと、「そうね」と言いながら、でも動かなかった。

なんとなく、私たちはその日もそのまま手元に置いた。

三日目の朝、私は一人で早めに目が覚めた。六時前だったと思う。せっかくだからと思って、朝の空気を吸いに団地の外を少し歩いた。敷地内を一周して、戻るついでに郵便受けを開けた。

三通目が入っていた。

今度は、封筒が少し重かった。中を開けると、便箋が二枚重なっていた。一枚目にはこう書いてあった。

「郵便受けを、毎朝確認していますね」

私はそこで初めて、声が出そうになった。抑えたけれど、手が震えた。

二枚目には何も書いていなかった。真っ白な便箋が、一枚だけ入っていた。

見られている、という感覚が来た。郵便受けを開けるたびに、確認されている。誰かが見ていて、それを封筒に書いて入れている。でもこの朝の時間に、誰が。どこから。

私は周りを見渡したが、誰もいなかった。棟のどこかの窓から見えるかと思って見上げたが、カーテンが閉まっているか、薄暗くて何も分からなかった。

その日の午前中、管理人室を訪ねた。常駐しているのは週に三日で、ちょうどその日は管理人がいた。六十代くらいの男性で、三通の封筒を見せると、しばらく黙って眺めてから、「切手に消印がないんですね」と言った。

私が頷くと、「ということは、投函されたものではなく、直接入れたということですね」と続けた。団地の郵便受けは屋内にある。外から入れるには、建物のオートロックを通る必要がある。住人か、住人が開けた隙に入るか。

「心当たりはありますか」と聞かれたが、ない。

管理人は「一応、記録しておきます」と言って、三通をコピーした。防犯カメラはあるが、一階の廊下全体は映っていなくて、郵便受けの前のあたりが死角になっているらしかった。

「届いたらまた持ってきてください」とだけ言われた。

私の帰省は翌日までだった。最終日の昼、荷物をまとめてから、もう一度だけ郵便受けを確認した。

入っていた。

四通目だった。今度は封筒ではなく、小さなメモ用紙が折りたたまれて入っていた。開くと、こう書いてあった。

「もう帰るんですね。お気をつけて」

私は長い間、そのメモを持ったまま立っていた。

帰る、ということを知っている。今日が私の最終日だということを、知っている。

管理人室に持っていこうかと思ったが、その日は管理人がいなかった。母に見せると、「帰った後が心配だわ」と言った。私も同じことを思っていた。私が帰った後、一人残る母のことが。

結局、四通のコピーを管理人のポストに入れ、私はその日の夕方に実家を出た。

それから三週間ほど経った。母からは、その後は何も届いていないと聞いた。私が帰った日以降、ぴたりと止まったらしい。管理人は防犯カメラの映像を確認したが、郵便受けの前の死角のせいで、誰が入れたか特定できなかったと言っていたそうだ。

住人の仕業なのか、外部の人間なのか、今も分かっていない。

文面の内容を考えると、差出人は私がそこにいることを知っていた。帰省していること、郵便受けを確認していること、帰る日付を知っていた。あの平日の真昼に、あの朝の早い時間に、静かな団地の中で、誰かがずっと見ていた。

気持ち悪いと言えばそうだし、何か深い理由があるのかもしれないとも思う。ただの愉快犯かもしれない。でも、「よく眠れていますか」という最初の一文が、時々思い出される。

誰に向けた言葉だったのか。

もともとは別の誰かに送るはずだったのか。それとも、最初から私に向けて書かれていたのか。

分からない。答えは出ていない。

これは、そのまま記録として残しておく。

スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました