うちの留守番電話が増えていく話

一人暮らしの部屋に置いた古い留守番電話。誰もかけてきていないはずなのに、毎朝メッセージが一件ずつ増えていく。残された声は、いつも自分自身のものだった。

その電話機を拾ったのは、引っ越しの三日後だった。

県境に近い小さな町に移り住んだのは、仕事の都合でも何でもなく、ただ家賃が安かったからだ。最寄り駅から歩いて二十分、スーパーまで自転車で十五分という立地で、周囲には似たような低層マンションと古い一戸建てが混在していた。そういう、どこでもない感じの場所。人の顔も覚えにくいし、自分の顔も忘れられそうな場所だと思った。

電話機を見つけたのは、マンションのゴミ置き場の脇だった。粗大ゴミの日でもなかったのに、誰かが出しっぱなしにしていたらしい。白いプラスチックのボディで、上部に黒い液晶パネルがついている、九〇年代後半くらいのデザインの留守番電話だ。汚れてはいたが、破損している様子もなかった。こういうものを拾ってくる習慣は今まで一度もなかったのだけど、そのときはなぜか手が動いた。引っ越し直後の、部屋にものが少ない状態特有の、何かを置きたいという感覚だったのかもしれない。

部屋に持ち帰って拭いてみると、思ったよりきれいだった。電源コードを差し込んだら、液晶に時刻を示す「00:00」という数字が表示された。まだ動くらしい。電話回線には繋がなかった。繋ぐ必要もないし、そもそも固定電話の契約をしていない。ただ飾っておくだけのつもりで、テレビ台の横に置いた。

翌朝、出勤前に目に入ったとき、液晶に「1」という数字が表示されているのに気づいた。

最初は電源が入ったことで何かが誤作動したのだと思った。留守番電話は、メッセージが録音されると件数を表示する仕組みになっている。回線に繋いでいないのだから本来おかしいのだが、内部のメモリに何か残っていたのかもしれない、と自分を納得させた。仕事があったので、確認する気にもなれずそのまま出かけた。

帰宅してから、一応と思って再生ボタンを押した。

少し間があって、声が流れ出した。

男の声だった。低くて、少しだけ掠れている。何を言っているのか、最初はうまく聞き取れなかった。音質が悪いというよりは、言葉の出し方がぎこちなかった。それでも耳を澄ますと、こう聞こえた。

「今日、電話した。出なかった。また電話する」

それだけだった。妙に短く、用件も何もない。声の感じからすると中年の男性のようだったが、特徴的なアクセントや口癖があるわけでもなく、印象に残らない声だった。

間違い電話のメモリが残っていたのだろうと結論づけた。古い電話機だし、誰かのメッセージが上書きされずに残っていることはある。気にするほどのことでもない。削除しようかと思ったが、操作方法がわからなかったのでそのままにした。

翌朝、「2」になっていた。

さすがにこのときは驚いた。回線に繋いでいない電話が、一夜のうちにメッセージを一件増やすはずがない。もう一度電源コードを抜いて差し直したが、数字は変わらなかった。再生すると、昨日と同じ声が流れた。

「また電話した。やっぱり出なかった。明日も電話する」

内容が、昨日の続きになっていた。

その日から、毎朝確認することが習慣になった。件数は必ず一件ずつ増えていった。二日飛ばしたことも、二件増えたことも、逆に減ったことも一度もなかった。増え方は正確に、毎朝一件だけだった。

声の内容は、最初のうちは短く、用件のようなものだった。「電話した」「出なかった」「また電話する」という繰り返し。ところが件数が十を超えたあたりから、少しずつ変わってきた。

「最近、どうしてる。話したいことがある」

「こっちはいつも通りだ。変わらない」

「お前の部屋、明かりがついてるのは見えてる」

この最後の一言で、寝る前に窓のカーテンを完全に閉めるようになった。それまでは少し隙間を開けていた。別に覗かれているとは思っていなかったが、何となく閉めずにはいられなかった。

件数が二十を越えたころ、声の質に気づいた。

風呂上がりに録音を聴き直していたとき、急に違和感を覚えて停止ボタンを押した。流れていた声を、頭の中で繰り返した。

低くて、少し掠れている。言葉の出し方がぎこちない。

自分の声に、似ていた。

人間は自分の声を正確に認識しにくい。録音で聞く自分の声は実際に話しているときの感覚と異なる、というのは知っていた。だから最初は、そういう錯覚だと思った。でも聴けば聴くほど、否定しにくくなった。スマートフォンで自分の声を録音して聞き比べてみた。一致しているとは断言できないが、全く別人の声だとも言いきれなかった。

そのあたりから、録音を聴くのが怖くなった。

怖いのに、翌朝も必ず確認した。件数が増えていないとそれはそれで不安になる気がして、確認しないわけにもいかなかった。

三十件を超えたあたりで、内容がまた変わった。

「夜中に起きてるのは知ってる。俺もそうだから」

「お前が拾ったのは偶然じゃない気がしてる。俺もそう思う」

「話したいことがある、って前に言った。正直に言う。怖いんだ」

「何が怖いかって、ちゃんと言えない。ただ、ここにいるのが怖い」

「ここ」というのがどこを指すのか、わからなかった。この部屋なのか、この町なのか、あるいは全く別の何かなのか。

四十件を越えたころ、声の内容に自分の行動が含まれるようになった。

「昨日、スーパーで卵を買った。安かったから二パック」

確かに、前日に卵を二パック買っていた。

「雨が降りそうだったのに傘を持っていかなかった。帰りに濡れた」

その通りだった。

「夜、眠れなくて本を読んだ。途中で眠くなって、読みかけのまま置いた」

正確だった。

これは記録なのか、予言なのか、あるいは全く別の何なのかが分からなかった。声が自分の行動を語るのか、自分が声の内容に従って行動しているのか、どちらが先かすら判断できなくなっていた。意識的に声と違う行動を取ろうとしたこともある。卵を買わないようにしたり、晴れていても傘を持っていったりした。するとその翌朝の録音には「今日は違う動きをした」とだけ入っていた。それだけで、詳細は何も言わなかった。

五十件目を超えたとき、録音の最後にこう続いた。

「お前、最近この電話を誰かに話そうとしてるだろう」

実際に、職場の同僚に話そうとしていた。昼食のときに切り出しかけて、なんとなく止まった。理由は自分でもよくわからなかった。声に止められたわけでもなく、ただ、言葉が出なかった。

「話さなくていい。別に困らないけど、誰かに言ったところで、どうにもならないから」

そこで録音は終わっていた。

六十件目の朝、再生ボタンを押したら、何も流れなかった。無音が続き、少ししてからブツッと切れた。翌朝も、その次の朝も、件数は増えたが音は入っていなかった。ただの無音だった。

七十件目の朝に、初めて違う音が入っていた。

声ではなかった。部屋の音だった。

エアコンの低い動作音。外から時々聞こえる車の音。それと、誰かが規則的に呼吸している音。

その録音が、どこで録られたものなのかに気づくまで少し時間がかかった。

自分の部屋の音だった。

今日の夜明け前の、自分が眠っているときの、自分の部屋の音だった。

電話機をゴミ置き場に返しに行こうとして、思いとどまった。理由は上手く言えない。ただ、捨てたあとのことを想像すると、それはそれで嫌な気がした。次の誰かが拾うのか、それとも、次の朝に部屋の前に戻ってくるのか。

今もテレビ台の横に置いてある。件数は今朝の時点で八十三になっていた。昨日の夜の録音は、また無音だった。おととい、その前も無音だった。

いつか、また声が入るのだと思う。

それが何を言うのかは、正直あまり考えたくない。

ただ、朝になると確認してしまう。確認しないと、一日が始まらない気がして。

そういう状態が、もうしばらく続いている。

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