うちの隣の部屋に灯りがついた話

空き部屋のはずの隣室に、ある夜から灯りが灯り始めた。管理会社は「入居者はいない」と言い続けたが、壁越しに聞こえるものは確かにあった。

その部屋に引っ越してきたのは、三十を少し過ぎた頃だった。

職場から三駅、家賃は相場より少し安い、築十八年の2DK。ベランダから見える景色は駐車場と古いコンビニの屋根だけで、特に眺めが良いわけでもなかったけれど、静かな場所に住みたかった自分にはちょうどよかった。

廊下をはさんで右側が自分の部屋、左側が隣室。部屋番号でいえば201と202。入居する前に担当の不動産屋に「お隣の方はどんな人ですか」と聞いたら、「202号室は現在空き室です」と言われた。「しばらく前から入居者がおらず、現在募集中」とのことだった。静かな環境を求めていた自分には、むしろ都合がよかった。

最初の一ヶ月は、本当に何もなかった。

廊下ですれ違うのは三階の夫婦らしき二人と、一階に住んでいるらしい老人だけで、202号室のドアは常に閉まったまま。ドアノブに不動産屋のチラシが挟まれたまましばらく放置されていたから、確かに誰もいないんだなと思っていた。

異変に気づいたのは、引っ越してから四十日ほど経った、十月の中頃だった。

夜の十一時過ぎ、仕事から帰ってきて廊下を歩いていたとき、ふと気がついた。隣の202号室のドアの下、ちょうど扉と床のあいだのわずかな隙間から、光が漏れていた。

あれ、と思った。電球色の、暖かみのある灯りだった。誰かが入居したのかな。チラシがいつの間にか外れていたのかもしれない。そう思って、その夜は気にしないことにした。

翌朝、出勤前に廊下に出ると、202号室のドアは相変わらず閉まっていた。ドアノブには何もかかっていない。昨晩の光のことをもう一度思い出したが、たまたまついていた手元灯かなにかだろうとそのまま忘れることにした。

ところが、翌日もその翌日も、夜になると隣の扉の下から光が漏れていた。

これが毎晩続くようになってから、さすがに管理会社に連絡を入れた。「202号室なんですが、最近夜に灯りがついているみたいで。入居者の方が変わったんでしょうか」と聞いたら、担当者は少し間を置いてから「いえ、202号室は現在も空き室のままです。現在も募集中でして、入居者はおりません」と答えた。

「でも灯りがついているんですよ」と言うと、「確認してみます」という返事だった。数日後に連絡が来て、「確認しましたが、特に問題はありませんでした。電気の契約自体もされていない状態です」と言われた。

電気の契約がない部屋に、灯りが灯っている。

言われたことの意味を正確に理解するのに少し時間がかかった。

その週から、帰り道で廊下に差し掛かるたびに、無意識に隣のドアの下を確認するようになっていた。灯りは相変わらずあった。夜の十時頃から、深夜の一時か二時頃まで。明け方に廊下に出たときには消えていた。タイマーでもかかっているかのように、規則的だった。

灯りの色は変わらない。暖かみのある電球色で、強くもなく弱くもなく、ただそこにある。

音は最初のうちはなかった。

いや、正確には、なかったと思っていた。

意識し始めたのは引っ越しから二ヶ月が過ぎた頃で、夜中にトイレに起きたとき、寝室の壁越しに何かが聞こえた気がした。低い、くぐもった音だった。テレビの音かとも思ったが、やけに一定のリズムがあって、少し不自然だった。何かをゆっくりと叩くような、あるいはゆっくりと動くような、そういう音。

翌日、壁に耳をあてて聞いてみた。何も聞こえなかった。夜中にもう一度試みたら、確かに聞こえた。低くて、遠くて、でも確かにあった。

隣の部屋から聞こえていた。

管理会社にもう一度電話した。今度は「壁から音がする」と伝えた。「配管の音かもしれないので確認します」という返事で、また数日後に「特に問題は見つかりませんでした」と言われた。

その頃から、廊下を通るたびに202号室のドアを見るのが怖くなってきた。何かが変わるわけじゃない。ドアは閉まっている。ただ閉まっているだけ。それでも、視線を向けるのが嫌になっていた。

一番気味が悪かったのは、ある土曜日の昼過ぎのことだ。

買い物から帰ってきて、廊下を歩いていると、隣のドアの前に何かが置いてあった。小さな紙袋だった。ビニール製の、透明な、何かが入った袋。近づいてよく見ると、中に干からびたような、茶色い何かが入っていた。植物の葉っぱのようにも見えたし、別の何かにも見えた。

袋には何の表示もなかった。

翌朝にはなくなっていた。

誰かが来て回収したのか、あるいは最初から自分が見間違えたのか、確かめる方法がなかった。

その日を境に、夜中の音が少し変わった気がした。規則的なリズムではなく、不規則になった。止まったり、また始まったり。明け方近くになると消える、その点は変わらなかったが、音の感じが違った。これは本当に配管の音じゃない、と思った。

冬に入る頃、一度だけ、明確に「声」を聞いた。

深夜の二時頃だった。眠れないまま横になっていたら、壁越しに、女性の声のようなものが聞こえた。一言か二言、何か言っているような。言葉の内容は聞き取れなかった。ただ声の高さと、抑揚の感じが、独り言を言っているときのそれだった。

誰かに話しかけているのではなく、ひとりで何か言っている、そういう声。

ドアを開けて廊下に出ることは、正直できなかった。布団をかぶって、朝まで待った。朝になって廊下に出ると、202号室のドアは閉まっていた。いつもどおりだった。

管理会社への連絡はそれから二度ほど続けたが、返ってくる答えはいつも同じだった。「空き室に変わりありません」「確認しましたが問題ありません」。

三月になって、仕事の都合もあって引っ越しを決めた。隣の部屋のことだけが理由じゃないけれど、それが一番大きかったとも思う。

退去の手続きをしたとき、ずっと気になっていたことを担当者に聞いた。「202号室、ずっと空き室って言ってたじゃないですか。あの部屋、以前は誰かが住んでいたんですか」と。

担当者は少し間を置いてから、「以前は入居者の方がいたのですが、退去されてから少し経っております」と答えた。

「退去された理由ってわかりますか」

また間があった。

「……健康上の理由、とだけ聞いております」

それ以上は教えてもらえなかった。

引っ越しを終えて、新しい部屋に落ち着いてからも、しばらくのあいだは夜中に目が覚めた。壁に耳をすませる癖がついてしまっていた。新しい部屋は両隣ともちゃんと人が住んでいて、生活音がある。それが逆に、少し安心だった。

202号室のことを思い返すと、今でも何だったのかわからない。

管理会社がずっと「空き室」と言っていたのが本当だとしたら、あの灯りは何だったのか。あの音は。あの声は。

逆に、管理会社が何かを隠していたのだとしたら、あの部屋には本当に誰かがいたことになる。夜だけ現れて、朝には消える、そういう誰かが。

どちらのほうが怖いのか、自分にはよくわからない。

ただひとつだけ、引っ越しの日に気がついたことがある。

荷物を運び出して、空になった自分の部屋をもう一度見回したとき、ベランダ側の壁に小さな染みがあった。引っ越してきたときからあったのかどうか、覚えていない。家具を置いていて見えなかっただけかもしれない。

ただその染みの形が、人の横顔に似ていた。

こちらを向いているわけじゃなく、壁の向こう側、202号室のほうを向いているような。

そう思ったのは一瞬で、引っ越し業者の人が「お客様、よろしいですか」と声をかけてきたから、そのまま部屋を出た。

振り返らなかった。

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