一人暮らしを始めた古いアパートで、ある日「部屋の広さ」がおかしいと気づいた男の記録。壁が、廊下が、ドアが、少しずつ――でも確実に――違う位置にある。
これを書いているのは、もうあの部屋には住んでいない俺だ。引っ越しを終えて、新しい部屋の段ボールを崩しながら、どうしても記録を残しておかないといけないと思った。自分の記憶が正しいかどうか、誰かに確かめてほしかったのかもしれない。
最初に住んだのは、県境の町にある木造の古いアパートだった。二階建ての、全八室。築年数は不動産屋の資料に「昭和後期」とだけ書いてあって、具体的な数字は濁された。家賃は安くて、駅から徒歩圏内で、当時の俺には十分すぎる条件だった。内見のときに感じた少しの古さと、廊下の木の軋む音は、むしろ「趣がある」くらいに思っていた。
部屋は六畳一間、ユニットバス、玄関の横に小さなキッチンがついているタイプ。間取り図を見せてもらったとき、「六畳ってこんなもんか」と思いつつ、実際に歩いてみるとちょうどいい広さに感じた。玄関から入って正面に窓、右手に押し入れ、左手に浴室のドア。シンプルな構造だった。
引っ越し当日、母親が手伝いに来てくれた。荷物を運び込みながら、母が「あら、思ったより広いじゃない」と言った。俺も同感で、六畳にしてはゆったりしている気がした。まあ採寸の仕方で変わるんだろう、くらいに思っていた。
異変に気づいたのは、入居して一ヶ月が過ぎた頃だった。
きっかけはすごく些細なことで、ベッドの配置を変えようとしたことだった。もともとベッドは窓際に縦向きに置いていたんだが、夏になって朝日が直接顔に当たるのが嫌になって、横向きに置き直そうと思ったんだ。それで壁までの距離を測ったら、ベッドが横向きに収まるか不安で、メジャーを引っ張り出した。
窓のある壁から向かいの壁まで、三百八十センチ。
部屋が六畳なら、短い辺は二百七十センチくらいのはずだ。六畳の規格にもよるが、三百八十センチはどう考えても広すぎる。俺は何度か計り直した。三百七十八センチ、三百八十一センチ、誤差はあったが確かにそのくらいの数字が出た。
まあ、古い物件だから多少広いのかもな。江戸間と京間みたいな話があるし。そう思って、自分を納得させた。
ベッドを横向きに置くと、部屋はさらに広く感じた。広い分には困らないから、俺はそのまま生活を続けた。
次に気になったのは、玄関からキッチンまでの距離だった。
夏の終わり頃、同期の友人が遊びに来た。「せまっ」と笑いながら入ってきた友人が、玄関で靴を脱いで部屋を見回して、「あれ、思ったよりキッチン遠くない?」と言った。友人も一人暮らしをしていて、似たような間取りの部屋を知っているはずだった。「古い建物ってこういうもんじゃないか」と答えたが、友人は「なんか廊下みたいな感じがするな」と首を傾けた。
言われてみると、玄関からキッチンのコンロまで、何歩くらいあるだろうと俺も気になって歩いてみた。俺の歩幅でだいたい十歩。十歩ということは七、八メートルはある計算になる。内見のときの記憶では、玄関とキッチンはもっと近くて、二、三歩の距離だった気がした。
でも記憶なんてあいまいなものだから、そんなもんだったかな、と思い直した。
十月に入って、俺は押し入れの位置がおかしいことに気づいた。
正確には、押し入れが「移動した」ように見えた。入居時、押し入れは玄関から入って右手の壁にあった。引っ越しのときにそこへ布団や季節外の荷物を入れた記憶がはっきりある。でも十月のある朝、布団を出そうとして、右手の壁に押し入れがないことに気づいた。
押し入れはそこじゃなくて、奥の壁にあった。
呆然として、しばらく立ち尽くした。奥の壁というのは、窓のある壁の左隣、浴室のドアと窓の間のスペースだ。確かに押し入れの引き戸がある。中を開けると、俺が入れた荷物がちゃんとそこにあった。
俺は部屋中を歩き回りながら、右手の壁を触った。右手の壁はどこにも引き戸の跡がなく、普通の平らな壁だった。
夢でも見ていたんだろうか。それとも俺の記憶がただ間違っていたのか。内見のときのメモを引っ張り出してみたが、簡単な走り書きがあるだけで、間取りまで記録していなかった。不動産屋からもらった間取り図を探したが、その紙が見当たらなかった。
気持ち悪かったが、荷物はちゃんとあったし、部屋は使えているから、深く考えないことにした。
ただそれからは、ときどき部屋の寸法を測るようになった。習慣というより、確認したくなるときがある、という感じで。
十一月。また数字が変わっていた。
窓から向かいの壁まで、四百二十センチ。以前は三百八十センチだった。四十センチ以上広くなっている。俺の測り方が悪いのかと思って、床に養生テープで印をつけた。壁際に貼って、向かいの壁まで何センチか書いておいた。
三日後、テープの印を確認すると、テープの位置は変わっていなかったが、テープと壁の間に隙間ができていた。テープが剥がれかけたのかと思ったが、剥がれ方が均一で、まるで壁が後ろに引いたみたいな隙間だった。
俺はその夜、部屋中の壁に養生テープで印をつけた。四方全部の壁際に、等間隔にテープを貼って、壁とテープの間隔がゼロになるようにした。
一週間後に確認すると、全ての壁でテープと壁の間に隙間ができていた。均等ではなかったが、どの壁も壁が遠くなっていた。
俺は夜中の二時に一人で部屋の真ん中に立って、四方の壁を見回した。壁はただそこにあるだけで、何も変わった様子はなかった。でも確実に、部屋は広くなっていた。
そのとき初めて、本当に怖いと思った。
幽霊とか、そういうものは信じていない。でも目に見えない何かが静かに部屋を変えていく感覚は、怖いとしか言いようがない。音もなく、気配もなく、ただ気づけば変わっている。
管理会社に電話しようかと思ったが、「部屋が広くなっています」と言っても信じてもらえないのは目に見えていた。証拠もない。テープの写真は撮っておいたが、「ちゃんと貼れていなかっただけでは」と言われたら反論できなかった。
隣の住人に話しかけてみたことがある。隣は六十代くらいの男性で、俺が挨拶をすると愛想よく返してくれた。「このアパート、長いんですか」と聞くと、「もう十年以上になるかな」と言った。俺は思い切って「部屋の広さって、入居時と変わらないですか」と聞いた。
男性はしばらく黙って、それから「そういうことを気にし始めましたか」とだけ言った。
続きを待ったが、男性は「気にしない方がいいですよ」とだけ言って、部屋の中に戻っていった。
その一言が頭から離れなかった。「そういうことを気にし始めた」という言い方は、俺が経験していることを知っているような言い方だった。でも追いかけて聞く勇気がなかった。
十二月の頭、俺は浴室のドアの位置がずれていることに気づいた。玄関から入って左手にあったはずのドアが、明らかに奥にずれていた。浴室と玄関の間の壁が長くなったように見えた。
俺は部屋全体の寸法を全部測り直して、ノートに書き出した。六畳の部屋として内見したときの規格とは、どれも大きくかけ離れた数字になっていた。
もう住み続けるのは無理だと思った。
引っ越しの理由を不動産屋に聞かれたとき、「仕事の都合で」とだけ答えた。部屋についての苦情は何も言わなかった。信じてもらえないし、言ったところで何も変わらないと思ったからだ。
退去の日、最後に部屋を歩き回った。窓から向かいの壁まで、俺の歩幅で十五歩以上あった。六畳の部屋が、少なくともその倍以上の広さになっていた。
不動産屋の担当者が来て、部屋のチェックをした。担当者は間取り図を手に持って、何も言わずに部屋を歩いた。俺は「部屋が広くなっていると思うんですが」と言ってみた。担当者は一瞬だけ止まって、「原状回復で問題ありませんね」と言った。広さについては何も言わなかった。
俺が部屋を出るとき、廊下に隣の男性が立っていた。引っ越しの挨拶をすると、男性は「早く気づいてよかったですね」と言った。
俺は「隣の部屋も同じですか」と聞いた。
男性は笑ったが、笑い方が少し変だった。「私の部屋はもうずいぶん広くなりましたよ」と言って、部屋の中に戻った。
廊下に一人残された俺は、隣のドアを見た。同じ六畳一間のはずの部屋のドアが、なぜか玄関ドアより大きく見えた。見間違えかもしれない。でも確かに、ドアの縦横の比率が俺の部屋のドアと違った。
今でもあの部屋のことを考えると、何が起きていたのかわからない。建物の構造が変わっていくはずがない。俺の測り方が毎回おかしかっただけかもしれない。記憶が混乱していただけかもしれない。
でも隣の男性が「早く気づいてよかった」と言ったのはどういう意味だったのか。「私の部屋はずいぶん広くなった」という言葉の意味は何だったのか。
あの部屋は今も誰かが住んでいるはずだ。同じ間取り図を渡されて、内見で「思ったより広いですね」と思っているかもしれない。
そしてある日、メジャーを引っ張り出すんだろう。

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