隣の家の明かりについて

引っ越した先の一軒家で、向かいの空き家にだけ夜ごと明かりが灯る。誰もいないはずの窓に映る影が、少しずつこちらに近づいてくる話。

その家に越してきたのは、三十二歳の秋だった。

仕事の都合で地方に転勤になって、勤め先の近くに手ごろな物件を探していたときに見つけた。木造の平屋で、築年数は三十年近いと言われたが、内装はそれなりにリフォームされていて、家賃が周辺の相場よりずいぶん安かった。不動産屋の担当者は「築古だからですよ」と笑って説明したが、それ以上のことは聞かなかった。俺も深くは尋ねなかった。

住宅地の端のほうに位置していて、周辺には同じような平屋が五、六軒並んでいた。道路を一本挟んだ向かい側にも家が建っていたが、そこだけ明らかに様子が違った。表札はなく、玄関先の植木は枯れたまま放置されていて、雨戸がすべて閉められていた。引っ越してすぐに隣の奥さんに挨拶をしたとき、そのことを軽く聞いてみると、「あそこは何年も前から空き家ですよ」と教えてくれた。前の住人が亡くなって、親族が相続したものの誰も住んでおらず、売りに出す気配もないまま今に至っているらしかった。よくある話だと思った。

最初の一週間は、とにかく荷物を解くのに追われていた。夜は疲れてすぐに眠れたし、近所に特段の不自然さも感じなかった。その家が気になりはじめたのは、越してきて十日ほど経った頃だったと思う。

夜中の一時ごろにトイレで目が覚めて、廊下を歩いていたとき、なんとなく玄関の小窓から外を見た。街灯がちょうど道路を照らしていて、向かいの空き家の外壁が薄ぼんやりと浮かんでいた。そこで俺は立ち止まった。

雨戸が、一枚だけ開いていた。

二階の、向かって左側の窓だった。ほんのわずかな隙間から、室内の光が漏れていた。電球色の、弱い光だった。

空き家のはずなのに、と思いながらしばらく見ていると、光はそのまま変わらず灯っていた。誰かが管理しに来ているのかもしれない、と思って、そのときは床に戻った。不思議だとは感じたが、怖いとは感じなかった。

翌朝、改めて向かいの家を見ると、雨戸はまた全部閉まっていた。

それから、同じことが続いた。

夜中に目が覚めるたびに確認するようになったわけではないが、ふとした拍子に窓の外を見ると、向かいの家の二階に光がある日があった。毎晩ではなかった。三日に一度、あるいは四日に一度くらいの頻度で、同じ窓から同じような明かりが漏れていた。朝になると必ず消えていた。

気になって、昼間に向かいの家の前を通りかかったことがある。外から見る限り、誰かが出入りした形跡はなかった。郵便受けも溢れたままで、足跡もなかった。雨戸の建付けが古くて、風で外れることがあるのかもしれない。あるいは電気の契約が切れていなくて、タイマーか何かで点灯しているのかもしれない。そういう合理的な説明を自分に言い聞かせながら、俺は特に誰にも相談しなかった。

状況が変わったのは、越してきて一か月ほど経った夜だった。

その夜も夜中の一時過ぎに目が覚めて、習慣のようになっていた玄関の小窓から向かいを見た。いつもと同じように、二階の左の窓に明かりが灯っていた。ただ、その夜は雨戸の開き方が少し大きかった。隙間ではなく、ほぼ半分ほど開いていた。

そして窓ガラスの内側に、影があった。

人の形をしていた。立っているのか、座っているのかはよく分からなかったが、明かりを背にして、こちらを向いているように見えた。

俺はしばらく動けなかった。空き家に人が侵入しているのかもしれない、と思いながら、同時に全身が強張って何もできなかった。一分か二分、ただそこに立って見ていると、影はゆっくりと窓から離れていった。明かりだけが残って、影は室内の奥に消えていった。

その夜は、もう眠れなかった。

翌日、隣の奥さんに、向かいの家に人が入っているのを見たと話した。奥さんは少し困った顔をして、「管理している方が時々来るとは聞いたことがありますけど」と言った。「でも夜中に来るなんておかしいですよね」と俺が言うと、奥さんは少し間を置いてから「あそこの家、前の住人が亡くなった経緯が少し……」と言いかけて、口をつぐんだ。「詳しくは知らないんですけど」と続けて、話を切り上げてしまった。

何かを知っていて、話したくないのだということは分かった。それ以上は聞けなかった。

その後、俺は向かいの家の管理者を自分で調べようとした。不動産屋に問い合わせてみようかとも思ったが、借りているのはこちら側の家で、向かいとは関係ないから教えてもらえるかどうかも分からなかった。結局、何もできないまま日が過ぎた。

明かりは、引き続き不定期に灯り続けた。

そしてある夜、俺はひとつのことに気づいた。

影が窓のそばにいる夜と、いない夜があることには早くから気づいていた。だが、それとは別に、影が窓のそばにいるとき、その位置が少しずつ変わっているような気がした。最初に影を見たとき、それは窓の内側、奥まったところに見えた。次に見たとき、もう少し手前にあるような気がした。その次も、また少し前に出ているように見えた。

俺はスマートフォンで写真を撮り始めた。毎夜ではなく、明かりが灯っているときだけ。撮れた写真は十数枚になった。

並べて見ると、ほぼ確実だった。影は、少しずつ、窓に近づいていた。

最初の写真では、影は窓枠から内側に一メートル以上は奥にあるように見えた。一番新しい写真では、窓ガラスのすぐ内側に立っているように見えた。

俺が向かいの家に越してきてから、ちょうど二か月が経っていた。

その写真を見て、俺は初めて本当に怖いと感じた。毎晩少しずつ近づいてくるということが、何を意味しているのかは分からなかった。でも、何かが確実に変化していることだけは、写真が証明していた。

その週末に、俺は荷物をある程度まとめて、一時的に同僚の家に泊めてもらった。向かいの家のことを話すと、同僚は「それ普通に不法侵入者じゃないの」と笑った。たぶんそれが一番ありえる答えだと思う。警察に相談することも考えた。

だが、その前に俺はもう一度だけ、自分で確認しようと思った。同僚の家に荷物を置いたまま、夜の一時ごろに一人で戻ってきた。玄関の小窓から向かいを見た。

明かりは、灯っていた。

そして雨戸は、全部開いていた。

二階の窓だけじゃなく、一階のすべての窓の雨戸が、いつの間にか開け放たれていた。どの窓にも明かりがあった。そして、一階の窓のすぐ内側に、影があった。人の形をした影が、こちらをまっすぐに向いて立っていた。

俺はそのまま車に乗って、同僚の家に戻った。結局、その晩は警察に通報しなかった。翌朝、不動産屋に電話して、一か月分の賃料を違約金として払う形で解約の意思を伝えた。担当者は少しの間沈黙したあと、「そうですか、分かりました」と言った。その声のトーンが、驚いている様子ではなかった。

引っ越しは一週間後にした。荷物を取りに戻ったのは昼間だったが、向かいの家の雨戸はまた全部閉まっていた。何もなかったような顔をして、静かに立っていた。

俺が最後に気になったのは、引っ越し当日のことだ。

荷物を業者に運び出してもらって、俺は最後に家の中を一通り確認して回った。廊下を歩いているとき、玄関の小窓からまた外が見えた。昼間だった。向かいの家の前に、一人の老人が立っていた。家の中を見るでもなく、ただそこに立っていた。

業者の人に「あそこに誰かいますね」と声をかけると、業者の人は窓の外を見て「どこですか?」と言った。

向かいの家の前には、誰もいなかった。

俺だけに見えていたのか、俺が見間違えたのか、それは分からない。ただ、その老人の立っていた場所と、向かいの家の二階の窓の位置を頭の中で重ねたとき、あの影が窓の外にまで出てきていたのかもしれない、とふと思った。

証明できることは何もない。

向かいの家が今どうなっているのかも、俺は知らない。

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