毎朝通る道の話

毎朝同じ道を歩くうちに、ある日から「順番」がおかしくなっていることに気づいた。誰も変だと思わないのに、自分だけが気づいてしまった男の記録。

これを書いているのは、あの道を通るのをやめてから三ヶ月ほど経った今だ。誰かに話しておきたいわけでも、信じてもらいたいわけでもない。ただ、書き残しておかないと、自分の中でもあやふやになっていく気がして、こうしてキーボードを叩いている。

去年の春から、僕は県境に近いある町に引っ越した。職場まで電車で三十分ほどかかるが、家賃が安く、静かな環境が気に入った。駅までの道のりは徒歩で十二、三分。商店街とも住宅街とも言い切れない、なんとなく中途半端な通りを抜けていく。朝の七時台はそこそこ人通りがあって、毎朝同じ顔ぶれとすれ違うこともある。そういう、ごく普通の通勤路だった。

最初に何かがおかしいと感じたのは、引っ越してから二ヶ月ほど経った頃だと思う。ただ当時はそれを「おかしい」とは認識していなくて、なんとなく引っかかる、という程度のものだった。

その通りには、いくつか目印になるものがある。駅側から順に並べると、まず古い時計店がある。シャッターが下りていることが多いが、外壁に取り付けられた丸い電光時計だけは動いている。次に、小さな公園。遊具が二つか三つある、子どもが三人も入ればいっぱいになるような場所だ。それから横断歩道。信号はなく、白線だけがある。続いて、駄菓子屋だった跡地。今は何も入っておらず、ガラス越しに棚の骨組みだけが見える。最後に、僕の住んでいるアパートがある。

毎朝この順番を通り過ぎて、駅へ向かう。帰りは逆順で。それが習慣になっていた。

最初に気づいたのは、時計店の時計についてだった。いつも家を出るのは七時二十分ごろで、その時計を通り過ぎる時には七時二十三分か二十四分になっているはずだった。ところがある朝、時計の針が七時十一分を指していた。僕は立ち止まって、スマートフォンで時刻を確認した。スマホは七時二十三分を表示していた。電池切れか何かで止まっているのだろう、とそのときは思った。

翌朝も七時十一分だった。その次の朝も。

一週間後も、七時十一分だった。毎朝同じ時間に止まっているというのは、それはそれで変な話だけれど、壊れた時計が偶然そこを指しているだけかもしれない。そう自分に言い聞かせて、あまり深く考えないようにした。

次に気づいたのは公園のことだ。あの公園には、すべり台とブランコと、もう一つ何かがあったはずだった。僕はそれをずっとジャングルジムだと思っていた。子どもが網目状の鉄枠を登っているのを、何度か横目に見た記憶がある。ところがある朝、ふとまじまじと見ると、そこにあるのはジャングルジムではなく、スプリング遊具だった。馬か何かの形をした、ばねで揺れるやつだ。いつからそうだったのか、まったく思い出せない。

念のため帰り道にも見た。スプリング遊具だった。翌朝も同じだった。ジャングルジムがあったという確信は薄れて、気のせいだったのかという気持ちが勝ってきた。でも、ジャングルジムで遊んでいた子どもの記憶は、妙にはっきりしているのだ。夕方の光の中で、制服の上着をランドセルに引っかけて、無邪気に笑っていた。あれは何だったのだろう、と今でも思う。

しばらくして、横断歩道のことが気になり始めた。いつも渡っているその白線が、ある朝から、歩道の左右の位置がほんの少しずれているように見えた。気のせいかもしれないし、白線が引き直されたのかもしれない。調べる方法もないし、そのまま渡り続けた。ただ、なんとなく落ち着かない感じがして、渡るたびに足元を確認するようになっていた。

そのころから、すれ違う人のことを意識するようになった。

毎朝同じ道を歩いていると、自然と同じ人と顔を合わせる機会がある。犬を連れた老人、大きなリュックを背負った学生らしき人、マスクをしてイヤホンをした女性。みんな毎朝ほぼ同じ場所で、ほぼ同じ方向から来る。それ自体はおかしくない。通勤通学のリズムが一定であれば、当然そういうことになる。

でも、ある朝から、その「すれ違う順番」が変わっていることに気づいた。

それまでは、犬を連れた老人が一番最初に来て、公園を過ぎたあたりで学生らしき人に会い、横断歩道の手前でマスクとイヤホンの女性とすれ違っていた。ところがある朝、女性が一番最初に来た。老人は横断歩道のあたりで、学生は時計店の前で来た。

翌日はまた順番が違った。学生、女性、老人という順だった。

最初は、彼らが家を出る時間を変えたのだろうと思った。出勤時間がずれることは誰にでもある。ただ、気になって記録をつけ始めた。スマートフォンのメモ帳に、毎朝「老→学→女」などと書き残していった。

二週間分溜まったところで見返してみると、妙なことがわかった。三人の順番に、法則がない。ランダムに入れ替わっているのだが、同じ組み合わせが一度も繰り返されていなかった。三人なら、順番の組み合わせは六通りある。二週間で十四日分の記録があって、六通りを超えているはずなのに、一度も同じ並びがなかった。

見間違いかもしれないと思って、もう一週間続けた。やはり、同じ順番が来なかった。

そのあたりから、僕は通勤路そのものへの集中力を意識的に高めるようにした。いつも通っているつもりで、実は何か見落としているのではないか、という感覚があった。

ある朝、駄菓子屋の跡地の前を通ったとき、ガラスの向こうに人影があった。棚の骨組みの奥の方に、誰かが立っているように見えた。暗くてはっきりとはわからなかったが、こちらを向いているような気がした。一瞬だけ立ち止まって見たが、よくわからなかったので、そのまま歩き続けた。

帰り道に確認しようとしたら、その建物の前だけ記憶が途切れていた。通ったはずなのに、通った感覚がない。気がついたら、横断歩道を渡り終わっていた。

翌朝はなんともなかった。人影も見えなかった。それからしばらく、何事もなかった。

変化があったのは、それから十日ほど後のことだ。

その朝、いつものように家を出ると、何かが違った。うまく言葉にできないのだが、風景が「一枚薄い」感じがした。色が正しい、形も正しい、でも奥行きだけがない、というか。目が覚めていないだけかと思ったが、歩いても歩いても、その違和感が消えなかった。

時計店の前を通った。電光時計は七時十一分を指していた。公園を通った。スプリング遊具があった。横断歩道を渡った。駄菓子屋の跡地を通った。

そこで気づいた。

いつもとは違う順番だった。

僕のアパートは、駅からみると一番遠い。だから、家から出て歩く順番は、アパート→駄菓子屋跡地→横断歩道→公園→時計店→駅、のはずだ。帰りはその逆になる。それがずっとそうだったし、毎日そうしていた。

でもその朝、駄菓子屋の跡地を通ったあとに、公園がなかった。横断歩道もなかった。次に見えてきたのは、時計店だった。

時計は七時十一分を指していたままだった。

おかしいと思いながらも足は動いていて、気づいたら改札を通っていた。いつも通りに電車に乗って、職場に着いた。遅刻もしなかった。ただその日一日、頭のどこかがぼんやりしていた。

帰り道は何事もなかった。順番も正しかった。公園も横断歩道も、ちゃんとそこにあった。

翌朝も普通だった。その翌朝も。だからもしかしたら、あの朝だけ、自分が何かを見間違えていたのかもしれない。疲れていたのかもしれない。

でも僕は、その朝の帰り道に一つ、どうしても気になることがあった。

アパートに戻る直前、ふと自分のメモを見返した。その日の朝の記録を見ようとした。するとメモ帳に、その朝の記録が二行あった。

一行目は僕が書いた。「女→老→学」。

二行目は、僕が書いた記憶がなかった。「十一分」とだけ書かれていた。

筆跡というか、フォントはもちろん同じだ。スマートフォンのメモ帳だから。でもそれを入力したのは自分ではない、という確信だけがあった。

その後、体調を崩したこともあって、しばらくは違う道で駅に向かうことにした。遠回りになるし、人通りが少なくてあまり好きではない道だが、今はそちらを使っている。

あの通りを通っていないだけで、特に何かが起きているわけでも、何かがなくなったわけでもない。職場にも普通に行けているし、日常は変わらず続いている。

ただ、一つだけ今でも引っかかっていることがある。

あの通りを最後に通った朝のことだ。もう使うのをやめようと決めたその日の朝、駄菓子屋の跡地のガラスを何気なく見た。棚の骨組みの奥に、あの日と同じように人影があった。でも今度は、少し遠かった。前に見たときよりも、奥の方に立っていた。

それだけならまだよかった。

問題は、その人影が、僕の方を向いていなかったことだ。

背中を向けて、壁の方を向いて立っていた。

その背中に見覚えがあった、という話を、ここに書いていいものかどうか、今でも迷っている。

おそらく気のせいだと思う。でも、気のせいだと言い切れないから、三ヶ月経った今もこうして書き残している。あの背中が誰のものだったか、それだけは、ここには書かないでおく。

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