同じ廊下の夢を何年も見続けた男が、ある日その廊下を現実の中に見つけてしまう。夢の中でだけ先に進めると思っていたのに、もう戻れないかもしれない。
最初に見たのは、たぶん二十代の後半だったと思う。
当時、俺は県境に近い小さな町で一人暮らしをしていた。特に理由があってそこを選んだわけじゃない。職場まで電車で四十分ほどで、家賃が安かった。ただそれだけだ。築三十年以上の古いアパートで、廊下の照明がたまにちかちかして、大家さんに言っても「そのうち直すから」と言ったきり半年放置されるような、そういう場所だった。
夢を見たのは、引っ越してから三ヶ月か四ヶ月が経ったころだと記憶している。
夢の中で俺は、廊下に立っている。廊下、としか言いようがない場所だ。幅は人がひとり歩けるくらい。床は白っぽいリノリウムのようなもので、古びて黄ばんでいる。天井には蛍光灯が等間隔に並んでいて、どれも薄暗く、何本かは完全に切れている。左右の壁は白いクロスで、何十年も前に貼られたような剥がれかけのやつだ。壁には扉がある。茶色い木製の、古いドアノブのついたドアが、廊下の両側に並んでいる。
それで、その廊下が、果てしなく続いているんだ。
前を見ても後ろを見ても、同じ景色がどこまでも続いている。消失点さえない。どこまでも、ただまっすぐに伸びている。その廊下に俺は一人で立っていて、音がまったくない。空調の音もない。自分の息の音もない。ただ蛍光灯がわずかにじりじりと鳴っている、そんな感じの場所だった。
その夢を見た翌朝、俺は特に何も感じなかった。不思議な夢だったな、くらいの感想で、仕事に行って、夜には忘れていた。
でも、また見たんだ。一週間後くらいに。同じ廊下に、また立っている。今度は少し違った。俺は前回よりも、廊下の「先」のほうにいる気がした。最初に見た夢では、どこにいるのかまったくわからなかった。でも二回目は、なんとなく「前回より先に進んでいる」という感覚があった。前に進んだ、ではなくて、最初から前回より先の地点に立っていた、という感じだ。うまく説明できないんだが。
三回目もそうだった。また少し先にいる。廊下の景色は変わらない。同じ蛍光灯、同じリノリウム、同じドアが並んでいる。でも、俺はじわじわと、前へ進んでいる。
そのころには毎週見るようになっていた。規則的なわけじゃない。三日に一回の週もあれば、十日以上空く週もある。でも必ずまた見る。そして毎回、少しだけ先にいる。
気になりだしたのは、ドアのことだった。
夢の中で俺は、ドアを開けようとしたことがある。何回目の夢だったか忘れたが、右側の壁の一枚に手をかけた。ノブに触れた瞬間、冷たかった。金属のような冷たさではなくて、もっと湿った、底冷えのする冷たさだった。回そうとすると、固くて動かない。力を入れると、向こう側からも抵抗があるような感触があって、俺は気持ち悪くなってやめた。
起きてから、しばらく手のひらを見ていた。特に何もなかった。跡もなかった。
夢の話を、職場の同僚に一度だけしたことがある。長くて暗い廊下を歩く夢を繰り返し見るという話をしたら、「ストレスじゃない?」と笑われた。それはそうだろうと俺も笑ったが、ストレスにしては継続が長すぎた。その時点で、もう二年近く見ていたはずだ。
二年のあいだに、俺は廊下のどのあたりにいるのか、なんとなくわかるようになっていた。理屈ではなく、感覚として。最初に立っていた場所から、随分と遠くへ来た。廊下に番号があるわけでも、印があるわけでもない。ただ俺の中に「ここは〇番目のあたりだ」という感覚があって、その数字が少しずつ大きくなっていた。
ある夜の夢で、俺は初めて「終わり」らしきものを見た気がした。遠くの方、廊下のずっと先に、何か暗くなっているところがあった。扉ではない。廊下の終端のような、壁のような、でもどこか奥行きのある暗さだった。俺はそこへ向かって歩こうとした。でも足が動かなかった。体ごとそこへ引き寄せられているような感覚はあるのに、脚だけが止まっている。そのまま目が覚めた。
朝、布団の中で天井を見ながら、俺はあの暗い終端のことを考えた。それまで廊下の夢を見るたびに不気味だとは思っていたが、怖いとはあまり感じていなかった。でもあの朝は、怖かった。漠然と、あそこには行ってはいけないという気がした。
それから少し後に、俺は仕事の関係で、別の町へ引っ越すことになった。
新しい場所は、前の町からかなり離れた、もう少し規模の大きな地方都市だった。職場の近くに部屋を借りて、段ボールを運び込んで、夜にはもうへとへとだった。引っ越した最初の夜、久しぶりに夢を見なかった。二日目も見なかった。もしかして引っ越したら見なくなるのかな、と思い始めたころ、また見た。
廊下は同じだった。蛍光灯も、リノリウムも、ドアも。でも俺は、あの「終端の暗さ」のずっと手前にいた。遠い場所ではない。かなり近い。廊下の先に、あの暗がりが、今度はもう輪郭をはっきりと持って見えていた。
俺は夢の中で、立ったまま動けなかった。近い。歩かなくても近い。ただそこにあるだけで、距離がじわじわと縮まっている気がした。
目が覚めたとき、俺は汗をかいていた。
新しい職場に慣れてきたある昼休みに、俺は近くの雑居ビルの中を通り抜けようとした。裏通りへの近道だと教えてもらっていたからだ。古いビルで、一階は飲食店が入っているが、上の階は事務所か何かのようだった。エレベーターを使わずに、非常階段の脇の廊下を歩いた。
そこで、足が止まった。
廊下だった。幅は人がひとり歩けるくらい。床は白っぽいリノリウムで、古びて黄ばんでいる。天井には蛍光灯が等間隔に並んでいて、何本かは切れている。壁は白いクロスで、剥がれかけている。左右に、茶色い木製のドアが並んでいる。
俺は三十秒くらい、その場に立ったまま動けなかった。
廊下はそれほど長くはなかった。ビルの端から端まで、二十メートルくらいだ。でも俺には、どこまでも続いているように見えた。というより、この廊下が「あの廊下」であるという確信が、理性より先に来た。
怖かったんだが、踵を返して逃げることができなかった。なぜかはわからない。俺はゆっくりと、その廊下を歩いた。ドアのノブに、触れてみた。
冷たかった。金属のような冷たさではなく、湿った、底冷えのする冷たさだった。
回そうとすると、固くて動かなかった。
俺は急いで手を離して、そのまま廊下の反対側の出口から外に出た。外は明るくて、車の音がして、昼休みの人が歩いていた。俺はしばらく、外の空気を吸いながら立っていた。
その夜、夢は見なかった。
その次の夜も。
一週間経っても、廊下の夢は来なかった。俺は少しほっとした。あの廊下を歩いたことで、何か終わったのかもしれないと思った。それとも、夢で近づいていたあの「終端」に、現実の中でたどり着いてしまったのかもしれないとも思った。どちらが正しいのかは、わからない。
でもひとつだけ、今でも気になっていることがある。
あのビルの廊下に、ドアがいくつあったか、数えていないんだ。あの夢の中の廊下には、必ず左右対称にドアが並んでいた。奇数になることはなかった。でも現実のあのビルの廊下、俺が歩いたとき、片側の壁には最後のドアがなかったような気がする。いや、確認していないから、俺の見間違いかもしれない。
それに、現実の廊下には終わりがあった。ビルの壁があって、出口があった。
だとしたら、俺が夢の中で遠くに見えていたあの「暗い終端」は、いったい何だったのか。
廊下の先に、あれはあったのに。
まだ、そこへはたどり着いていないのに。


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