毎晩、同じ時間に電話が鳴った部屋の話

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引っ越した部屋で、毎晩22時17分ちょうどに鳴り続けた固定電話。出てはいけない、と思っていた。でも、ある夜だけ、出てしまった。

あれは二十代の後半、仕事の都合で県境の町に移り住んだときの話だ。

転勤が決まったのが二月の終わりで、赴任先への引っ越しを急いで手配した。物件を選んでいる時間もなく、会社が紹介してくれた不動産屋に頼んで、条件は「駅から徒歩圏内」と「家賃がそこそこ」というだけで決めてしまった。内見すらしなかった。写真で見る限り、ごく普通の2Kのマンションで、築年数は古いが清潔感はあった。それで十分だと思った。

部屋に入ったのは三月の中旬、引っ越し業者のトラックが来た日の昼過ぎだった。

荷物を運び込んで、段ボールを積み上げて、夜には簡単に自炊して食べた。テレビも繋いだ。問題は何もなかった。強いて言えば、部屋に固定電話の差し込み口があったことが少し気になった程度だ。古いマンションだから、壁にモジュラージャックが残っているのは珍しくない。そこに固定電話機が置いてあった。前の住人が置いていったらしく、ホコリをかぶった白い電話機が棚の端に鎮座していた。管理会社に連絡しようかとも思ったが、面倒で後回しにしているうちに忘れてしまった。

最初に電話が鳴ったのは、引っ越してから四日目の夜だった。

時刻は、確認すると22時17分だった。着信音が鳴ったとき、自分のスマートフォンかと思って咄嗟に手を伸ばしたが、スマホは沈黙したままで、音は棚の方から来ていた。前の住人が置いていった、あの白い電話機だ。

おかしいとは思ったが、とりあえず出なかった。どこかの間違い電話だろうと思ったし、回線が生きているとも思っていなかったので、ただ鳴り終わるのを待った。電話は十回ほど鳴って、止まった。

翌日の夜も鳴った。22時17分だった。

その次の日も鳴った。22時17分だった。

三日続いたので、さすがに気になって管理会社に電話した。ところが担当者の反応がどこか要領を得なくて、「確認します」と言ったきり、何日経っても折り返しが来なかった。もう一度かけると「前の入居者の契約がまだ残っていた可能性があります、対応します」とだけ言われた。それから数日後、電話機のモジュラージャックを確認すると、ケーブルが壁から抜かれていた。誰かが来て処置したらしい。

その夜は、静かだった。

よかった、終わった。そう思って眠ろうとしたとき、22時17分に電話が鳴った。

ケーブルが抜けているのに、鳴っていた。

布団の中から棚の方を見た。あの白い電話機が、ランプも光らせずに、音だけを出していた。心臓がひやりとしたが、動けなかった。電話は十回鳴って、止まった。次の日も、また22時17分に鳴った。それからは毎晩だった。

しばらくは出なかった。理由はうまく説明できないが、出てはいけないという感覚があった。根拠のない確信のようなもの。もし出たら、何かが変わってしまう気がした。だから電話が鳴り始めると本を読む手を止めて、息を詰めて、十回が終わるのを待つ。それが夜のルーティンになっていた。

電話機を捨てようとしたことがある。段ボールに入れてベランダに出しておいた。翌朝、電話機は棚の上に戻っていた。自分で戻したのかと思って混乱したが、記憶がない。気味が悪かったので、もう一度段ボールに入れて、今度は玄関の外の廊下に置いた。翌朝、また棚の上にあった。

それからは触らないことにした。

奇妙なことに、電話が鳴る以外に、生活上の困りごとは何もなかった。仕事には慣れたし、近所のスーパーも使いやすかった。職場の同僚とも少しずつ打ち解けてきた。昼間はどこにでもある普通の日々だった。ただ夜の22時17分だけが、毎晩切り取られたように変だった。

二ヶ月ほど経ったある夜、職場の先輩の田川さんと飲みに行った帰りに、マンションの話になった。田川さんは同じ会社の古い人間で、その町には十五年以上住んでいる。私が住んでいる建物の名前を言ったとき、田川さんは少し黙った。

「あそこか」と言った。

「知ってますか」と聞いたら、「昔、住んでた人が、ちょっとあれだったらしい」と言葉を濁した。もう少し聞いてみたが、「あんまり詳しくないんだけど、長く住んでた老人がいて、亡くなり方がね」とだけ言って、それ以上は話してくれなかった。酔っていたのか、話したくないのか、それとも本当に知らないのか、判断がつかなかった。

その夜、部屋に帰ったのは22時を少し過ぎたあたりだった。

コートを脱いで、水を飲んで、スマホを充電器につないだ。22時17分まで数分あった。いつものように待てばいい。そう思っていた。

でも、その夜に限って、ふと思ってしまった。

出たら、どうなるんだろう。

出てはいけない。ずっとそう思っていた。でも、出なかったのは、何かに言われたからじゃない。自分の中の、根拠のない感覚だ。ケーブルが抜けていても鳴る電話が、毎晩同じ時間に鳴り続けて、二ヶ月経った今もまだ鳴っている。それが何なのか、何も分からないまま終わりたくない、という気持ちがそのとき初めて出てきた。

電話が鳴り始めた。

棚の白い電話機から、いつもと同じ着信音。22時17分。

一回、二回、三回。

私は立ち上がって、棚の前に立った。

五回、六回。

受話器を取った。

耳に当てた瞬間、向こうで誰かが息を吸う音がした。短い、小さな息だった。人が話し始める直前の、あの間。

それから声が聞こえた。男の声か女の声か、年齢も判断できないような、ひどくかすれた声だった。言葉は、最初はうまく聞き取れなかった。もう一度聞こうとして受話器を強く耳に押し当てると、今度ははっきり聞こえた。

「まだいるの」

それだけだった。

私は何も言えなくて、そのまま受話器を持ち続けていた。向こうからも声は来なかった。しばらくして、ゆっくりと受話器を戻した。電話は切れた。

その夜は眠れなかった。「まだいるの」という言葉が頭から消えなかった。私に言ったのか。それとも、誰か別の人間に言おうとして、間違えて私につながったのか。あるいは、私に言ったとして、それはどういう意味なのか。

翌日から、電話は鳴らなくなった。

一日、二日、三日と過ぎて、22時17分が来ても静かなままだった。一週間経っても鳴らなかった。あれだけ毎晩だったのに、受話器を取ったその夜を最後に、ぴたりと止まった。

それから半年ほど経って、転勤の辞令が出て、その部屋を出ることになった。退去の日、最後に部屋を見回したとき、棚の上に白い電話機があった。持って出ることも考えたが、やめた。管理会社への連絡も、特にしなかった。次に誰かが入ったとき、電話機はどうなるのだろうと思いながら、鍵を返した。

今でも、22時17分が近づくと、なんとなく意識してしまう。

電話が鳴るわけじゃない。ただ、時計を見てしまう。

「まだいるの」という声が、誰に向けられていたのかは、今でもわからない。

でも、ひとつだけ考えていることがある。あの声が私に言ったのだとしたら、答えは「いる」だった。私はまだそこにいた。では、あの声の主が確認したかったのは、私のことだったのか。それとも、もっと別の、もう「いない」はずの誰かのことを確かめようとして、電話をかけ続けていたのか。

その場合、私が出てしまったことで、何かを伝えてしまったことになる。

まだいるの、という問いに、出てしまったことで、「いる」と答えたことになる。

何が、いまも「いる」のか。私には、わからない。

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