取り壊し直前の漁村の集合住宅で、管理人として最後の清掃を任された男が残したブログの話。毎夜同じ時刻に、誰もいないはずの部屋から聞こえてくるものの正体を、彼は最後まで確かめようとしなければよかった。
これは、俺が去年の秋に書いていたブログをそのまま転載したものだ。
当時、俺は管理人の仕事を請け負う小さな会社に勤めていた。マンションや社員寮、公営住宅の清掃や設備点検を専門に請け負う会社で、俺はそこに入って六年目だった。取り壊しや閉鎖が決まった物件の「最終整理」を担当することが多く、それ自体には慣れていた。空になった部屋を一室ずつ点検して、残置物を確認して、簡単な清掃をして、鍵を返す。それだけの仕事だ。
だから、その物件を最初に紹介されたときも、特に身構えるものはなかった。
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**2024年10月7日**
今日から新しい現場に入った。
県境に近い海沿いの小さな港町に建つ、四階建ての集合住宅。もともと漁業組合が従業員向けに建てた社宅らしく、築四十年以上になる。組合の事業縮小に伴って今年の春に全住人が退去し、来月の下旬には解体工事が始まる予定だとのことだった。
最終整理の期間は三週間。残置物のリストアップ、設備の最終確認、各部屋の簡易清掃が主な業務内容だ。俺一人で入る現場としてはやや規模が大きいが、急いで終わらせる必要はないとも言われた。
建物に着いたのは午後二時ごろだった。外壁はところどころ剥落していて、一階の駐車場には誰のものか分からない古い自転車が一台、チェーンごと錆びついたまま残っていた。周囲には民家がほとんどなく、坂を下れば港があり、潮の匂いがずっとしていた。
部屋は全部で十六室。各フロアに四室ずつ。住んでいた形跡は様々で、きれいに退去した部屋もあれば、家具や生活用品が残されたままになっている部屋もあった。今日は一階と二階を一通り確認して、夕方には引き上げた。
特に変わったことはない。ただ、波の音が思ったより近くまで聞こえる建物だと思った。
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**2024年10月9日**
二日目。今日は三階と四階の確認に入った。
四階の一番奥の部屋、401号室だけ鍵が微妙に固く、少し時間がかかった。中に入ると、他の部屋と違って生活用品がほとんど残っていた。食器棚、布団、カーテン。台所には調味料の瓶が並んだままで、まるで昨日まで誰かが住んでいたような印象だった。
退去の記録を確認したら、ここが一番最後まで住人がいた部屋らしかった。今年の四月末まで入居していたとある。
窓から海が見えた。晴れていたので、遠くに小さな漁船がいくつか浮かんでいるのが見えた。悪くない眺めだと思った。
その日は予定通り作業を終えて、近くの国道沿いのビジネスホテルに戻った。夕食は近くのコンビニで済ませた。
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**2024年10月11日**
少し気になることがあったので書いておく。
昨夜、日付が変わる少し前に目が覚めた。ホテルの部屋で、特に理由もなく。眠れなくてしばらくぼーっとしていたのだが、ふと時計を見たら午前0時17分だった。
それ自体はどうということもない。ただ今夜も同じ時刻に目が覚めて、時計を見たら0時17分だった。二日続けて。
偶然だとは思う。でも少し妙な感じがしたので書いておいた。
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**2024年10月13日**
今日は401号室の残置物を本格的に整理し始めた。
食器棚の引き出しを開けると、奥に一冊のノートが入っていた。家計簿のような罫線のノートで、表紙には何も書かれていない。中を開くと、日付と時刻だけが几帳面な字で書き込まれていた。
「4月2日 0時17分」
「4月3日 0時17分」
「4月4日 0時17分」
途切れなく、毎日同じ時刻が記録されていた。最初のページから最後のページまで、すべて「0時17分」だった。日付だけが一日ずつ進んでいる。
最後の日付は「4月28日 0時17分」。退去した前日だ。
何の記録なのかは分からなかった。眠れない日の記録だろうか。それとも何かが起きる時刻だったのか。ノートは一応、残置物として写真を撮ってリストに加えた。
その夜も、0時17分に目が覚めた。
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**2024年10月15日**
書くか迷ったが、書いておく。
昨夜、また0時17分に目が覚めた。今度はホテルの部屋ではなく、現場の中にいた。いや、正確に言うと、俺は現場に泊まっていない。毎日ホテルに戻っているはずだ。なのに夢の中で、俺は401号室にいた。
夢だと分かっている。でも妙にはっきりしていた。
部屋の中は暗くて、潮の匂いがした。窓の外に海が見えた。波の音だけが聞こえていた。それだけの夢だったが、起きてからもしばらく匂いが残っているような気がした。
今日の作業中、念のため401号室の窓が完全に閉まっているか確認した。閉まっていた。
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**2024年10月18日**
変なことが続いている。
今日、401号室でもう一度あのノートを手に取った。写真は撮ったが、中身をちゃんと読んでいなかった気がしたので。
見直すと、最後のページに一行だけ、他と違う文字があった。細い字で、欄外に小さく書かれていた。最初に確認したときは気づかなかった。
「かえってくる」
それだけだった。
前後の文脈はない。日付も時刻も書かれていない。ただその四文字だけが、最後のページの隅に書いてあった。
誰が帰ってくるのか、どこへ帰ってくるのかは書いていない。
今夜、俺はホテルに戻る前に少し迷った。401号室に残った布団を見て、一瞬だけ「今日はここに泊まってみようか」と思った。
やめた。なんとなく、やめた方がいい気がした。
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**2024年10月21日**
今日で作業は八割方終わった。残りは401号室の最終清掃と、全室の施錠確認だけだ。
昨夜また0時17分に目が覚めた。もう慣れてしまった。ただ今回は、目が覚めた瞬間に何かを聞いた気がした。音というより、声に近いもの。内容は分からなかったが、低くて、穏やかな声だった。
ホテルのテレビがついたままだったのかもしれない。確認したらついていなかった。
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**2024年10月24日**
最終日。今日で作業を終えて、鍵を返して、この現場は終わりになる。
401号室の最終清掃を午後から始めた。残っていた布団を畳み、棚を拭き、床を掃いた。作業を終えて、最後に部屋を見渡したとき、ふと気になって窓を開けた。
潮の匂いが入ってきた。遠くに港が見えた。夕方の光で海が少しだけ赤く見えた。
来月にはこの建物も、この部屋も、なくなる。
鍵を閉めて、四階の廊下を歩いた。各部屋の前を通りながら、施錠を確認していく。101、102、103、104。201、202、203、204。301、302、303、304。401、402、403、404。
全室、異常なし。
会社に報告を入れて、今夜は少し早めにホテルに戻った。ビールでも飲もうかと思いながら、精算書類の整理をしていた。
そのとき、ふと思った。
俺が整理していた部屋割り図を見ると、この建物の部屋は各階に四室ずつ、計十六室と書いてある。確かにそうだ。一階から四階まで、各フロア四室。俺は三週間かけて十六室すべてを確認した。
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**2024年10月24日(追記)**
施錠確認のメモをもう一度見た。
俺が今日、確認したのは。
101、102、103、104。
201、202、203、204。
301、302、303、304。
401、402、403、404。
十七室だ。
三週間、毎晩0時17分に目が覚めながら、俺はずっとそれを数え間違えていたのだろうか。それとも。
この建物の見取り図に、305号室は、最初から存在しない。
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以上が、当時ブログに残していた文章だ。
その後、解体工事は予定通り行われ、建物はもうない。
会社に確認したところ、この建物は設計上、各階四室の計十六室で間違いないとのことだった。
俺が施錠を確認した305号室が何だったのか、今も分からない。305号室の中に何があったのかも。
ただ一つだけ、今も考えることがある。
あのノートの「かえってくる」という文字、あれは未来のことを書いたものではなく、あの部屋の住人が、毎夜0時17分に「何かが帰ってくること」をずっと記録し続けていたとしたら。
そして退去した後も、何かはまだ、あの建物に帰り続けていたとしたら。
三週間、俺は毎夜0時17分に目が覚めながら、ホテルではなく、どこにいたのだろう。

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