誰もいないはずの時間に、職場の給湯室から水の流れる音がする。最初は気のせいだと思っていた。でも、記録を取りはじめてから、少しずつ、おかしなことに気がついていった。
これは、去年の秋から冬にかけての話だ。
私はその頃、とある中規模の会社に勤めていた。従業員は全部で三十人ほど。県境の町にある、古いビルの二フロアを借りたオフィスで、特に変わったところもなく、ごく普通の事務仕事をしていた。
最初に気になりはじめたのは、十月の半ばのことだったと思う。
その日、私は残業で遅くなっていた。他のメンバーが帰ったあとも、一人でデスクに向かっていて、時刻は夜の九時をとっくに回っていた。フロアには自分だけ。空調の低い音と、キーボードを叩く音だけが響いている、そういう静けさだった。
コーヒーを淹れようと思って席を立ったとき、廊下の奥から音が聞こえた。
水の音だった。
蛇口から水が流れているような、あのサラサラとした、連続した音。給湯室は廊下を突き当たって右に曲がったところにある。距離にして十五メートルほどだろうか。音はそこから来ていた。
最初は、誰か残っているのかと思った。でも、さっき帰り際に全員に声をかけて見送ったはずだ。フロアの電気も、給湯室の前を通るときには落としてある。念のため廊下を歩いて行って、給湯室の引き戸を開けてみた。
電気は消えていた。暗い室内に、窓からの街灯の光だけが差し込んでいる。誰もいない。蛇口も閉まっている。流れているはずの水は、もうどこにも見当たらなかった。
気のせいかな、と思った。その時は本当にそれだけだった。古いビルだし、水道管が古くなれば、音が伝わってくることもある。そういうことだろうと。
でも、同じことが続いた。
一週間後の夜、また残業していたとき、同じ時間帯に同じ音がした。廊下の奥から、水の流れる音。今度も誰もいない。蛇口も閉まっている。
そのまた一週間後。同じだった。
私は少しだけ、記録をつけてみることにした。大げさなものじゃなく、スマホのメモアプリに日付と時刻と状況をメモするだけの、ごく簡単なもの。怖いとか心霊現象だとか、そういうことは全然思っていなかった。ただ、パターンがあるなら知りたかった。配管の問題なら、管理会社に伝えなければならないし。
記録を続けると、いくつかのことがわかってきた。
音がするのは、いつも夜の九時十分から九時半の間だった。これはほぼ毎回そうで、ずれても数分程度だった。音の長さは、毎回だいたい三十秒から一分ほど。そして、音がするのは残業で誰かが残っているときだけではなく、後から確認すると、誰も残っていない夜にも、管理会社の定点カメラの記録には何も映っていない時間帯にも、音がしていたことが何となくわかってきた。それはちょっとした偶然から判明したことで、詳しくは後で話す。
十一月に入って、同僚の澄田さん——四十代の、ベテランの事務員さんで、私がその職場に入ったときから何かと気にかけてくれていた人——が、ある日の昼休みにぽつりと言った。
「ねえ、給湯室の水の音、あなたも聞こえる?」
私は少し驚いた。「聞こえますよ。夜に残ってるとき、よく」と答えると、澄田さんは小さく頷いて、「私は昼間も聞こえることがある」と言った。
昼間も、というのが引っかかった。
「いつ頃ですか」と聞くと、「お昼過ぎに、ここのフロアが空になる時間があるじゃない。みんな揃って外に打ち合わせに行ったりする日とかに、私一人で留守番してると、聞こえることがあるの」
澄田さんは特に怖がっている様子でもなく、「配管が古いんじゃないかしら」と笑っていた。でも私はその話を聞いて、スマホのメモを見返した。
夜の九時台というのは、残業していない日の多くで、ちょうどオフィスに人がいなくなる時間帯だった。警備の人間が入るのは夜十時。私が残業している日は人が残っているからわかるが、残っていない日にも音がしているとしたら。
私は少し考えて、他の事務員の岡田くんに声をかけた。彼はシステム管理の兼務もしていて、フロアの簡単なカメラシステムの設定もできる立場にあった。「給湯室の配管の確認のために、音が鳴ってる瞬間の記録を残したいんですけど」と話すと、岡田くんは面白がって手伝ってくれた。
給湯室の入口近くに、小さな角度で廊下側を向いた録音機を一週間ほど設置してみた。会社の備品を使った、ちょっとした実験みたいなものだった。
一週間後、記録を回収して確認した。
毎日夜の九時十分から九時三十分の間に、必ず水の流れる音が録音されていた。七日間、一日の例外もなく。
録音だけでは当然、何が原因かはわからない。配管かもしれないし、上階か下階から伝わってくる音かもしれない。岡田くんはそう言って、「管理会社に言ってみましょうよ」と軽い感じで話を締めくくろうとした。
でも私は、録音ファイルをもう少し細かく聞き直していて、あることに気がついた。
水の音は毎回ほぼ同じだった。長さも音量も、音の立ち上がりと収まり方も。まるで同じ音源を再生しているみたいに、均一だった。配管の圧力や水温で自然に生じる音なら、もう少しランダムな揺らぎがあるはずじゃないか。少なくとも、私にはそう感じられた。
岡田くんに話すと、彼はしばらく沈黙してから「まあ、古いビルだし、そういうこともあるかも」と言った。でもその目が、さっきとは少し違う色をしていた気がした。
その頃から、私は給湯室に一人で入るのが少し嫌になった。怖い、というより、落ち着かない感じ。あの場所に入ると、誰かがさっきまでそこにいたような気配がする気がして。濡れているわけでも、物が動いているわけでもない。ただ、なんとなく、そういう感じがした。
十二月の初め、澄田さんから少し変わった話を聞いた。
「あのビル、昔ね、別の会社が入ってたの」と彼女は言った。「私、以前この辺の別の会社にいたから、ちょっとだけ知ってて。十年以上前の話だけど」
どんな会社だったかを聞くと、澄田さんは少し考えてから「製造関係だったかしら。でもわりとすぐ撤退して、その後ここが今の管理会社に入ったって聞いてた。何かあったとかじゃなくて、ただ経営がうまくいかなかったって話だったけど」と言った。
「何かあったとかじゃなくて」という部分が、なぜか頭に残った。
その日の夜、私はまた残業していた。時刻が九時を回ったとき、廊下の奥から水の音がした。いつも通りの音。私はメモアプリを開いて時刻を記録しながら、音が止むまでじっとしていた。
止んだあと、ほんの出来心で廊下に出て、給湯室の前まで歩いた。引き戸の前に立って、少し間を置いてから、開けた。
電気を点けると、何もなかった。
シンクも床も乾いている。蛇口は閉まっている。窓も閉まっている。
何もない、いつもの給湯室だった。
でも、引き戸を閉めて廊下に戻ろうとしたとき、ふと、シンクの縁に目が行った。
濡れていた。
シンクの内側ではなく、縁の、外側の部分。まるで水を使った後に拭き忘れたような、薄い水跡が残っていた。さっき確認したとき、そこには何もなかった。少なくとも、私にはそう見えた。
見落としていただけかもしれない。水が跳ねた跡が前からあったのかもしれない。
ただ、もし自分が正しく確認していたとしたら。
私はその水跡の写真を撮って、何も考えないようにしながらデスクに戻った。
その後、管理会社に配管の点検を依頼した。点検に来た業者の人は、フロアの給排水管を一通り確認して、「特に異常はないですね」と言った。「古いビルなので多少音が出ることはあるかもしれませんが、水が漏れている形跡はない」と。
それで話は一応、終わりになった。
音が止んだわけじゃない。今も夜の九時過ぎに、給湯室の方から水の流れる音がする。でも誰も特に気にしなくなって、私の記録も途絶えて、そのままになった。
最近は、あの水跡のことをたまに思い出す。
給湯室に誰かが来ていたとしたら。あるいは、来ていたというより、いたとしたら。何かをしようとして、あるいは何かをするために毎晩あの時間に来ていたとしたら、それは一体何のためなのか。
わからない。
今もわからないまま、私はあのビルに通っている。給湯室でお茶を淹れるとき、シンクの縁を確認する癖だけが残った。たいていは乾いている。
でも、たまに、濡れていることがある。
その日は決まって、夜に残業することになる。
偶然かもしれない。気のせいかもしれない。それだけかもしれない。
ただ、誰もいないはずのあの時間に、水が流れているのは本当のことだ。


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