誰もいないはずの給湯室から、毎晩同じ時刻に水の流れる音がする。気にしないようにしていたのに、ある日その音が「私を呼んでいる」ことに気づいてしまった。
私が今の職場に転職してきたのは、三年ほど前のことだ。
県境の町にある、従業員三十人ほどの小さな印刷会社。特別変わったところもなく、人間関係もそれほど悪くない。しいて言えば、社屋が少し古いくらいだった。築四十年を超えているらしく、廊下を歩くたびに床がきしんだり、雨の日には窓枠がほんのり湿った匂いを放ったりした。でもそういうのは、古い建物なら珍しくもない。私はあまり気にしなかった。
問題の給湯室は、オフィスフロアの一番奥にある。コーヒーメーカーと小さな電子レンジ、それから二槽の流し台があるだけの、四畳半ほどの狭い空間だ。窓がなくて薄暗く、蛍光灯の色が少し黄ばんでいて、昼間でもどことなく夕方みたいな空気が漂っている。社員たちがよく使う場所ではあるけれど、誰もそこに長居はしない。用が済んだらさっさと出ていく、そういう場所だった。
最初に音に気づいたのは、入社して半年ほど経ったころだと思う。
残業で遅くなった夜、私はオフィスにひとり残って作業をしていた。フロアには私だけで、外は静かで、パソコンのファンの音しか聞こえないような状況だった。その時だ。給湯室のほうから、かすかに水の流れる音がした。
最初は気にしなかった。蛇口の締まりが甘くて、ポタポタと垂れているのだろうと思った。でも少し経っても音は続いていて、しかも「ポタポタ」じゃなくて、もっとちゃんと流れているような音だった。ザー、という連続した音。誰かが蛇口を開けっ放しにしているような。
仕方なく確認しに行った。廊下を歩くと、給湯室のドアの隙間から、確かにその音がした。ドアを開けると、流し台の蛇口がひとつ、半開きになっていた。水が細く糸を引くように流れていた。私はそれを締めて、戻った。誰かが締め忘れたんだろうと、それだけのことだと思った。
次にその音を聞いたのは、二週間後の夜だった。また残業だった。また同じ時刻、だいたい夜の九時を回ったころ。給湯室から、水の音がした。
今度も確認しに行くと、また蛇口が開いていた。前回と同じ流し台の、同じ蛇口だった。私はまた締めた。
それから私は、少しだけ意識するようになった。残業の夜、あの蛇口は開いていないか。気にしてしまうと、余計に耳が鋭くなる。雨の日の水音と混同しそうになったり、エアコンの排水音と聞き間違えたりした。でも本物の「あの音」は、なんとなくわかるようになっていった。音の質が少し違う。もっと落ち着いていて、一定で、まるで誰かが意図して流しているような、そういう音だった。
同僚の田口さんという女性に、さりげなく聞いてみたことがある。田口さんは私より十年以上長く勤めているベテランで、社内のことは大抵知っている人だった。
「給湯室の蛇口って、たまに勝手に開いてることない?」
田口さんは少し間を置いてから、「ああ」と短く言った。
「あそこの蛇口、昔から調子悪いのよ。締めてもゆっくり戻ってくるみたいで」
そう言って笑った。私も笑った。なんだそういうことか、と思った。
でも、それで終わりにできなかった理由がある。
ある夜、私はいつもより遅くまで残って、ふと気づいたことがあった。水の音がする、その時刻のことだ。なんとなく気になって、音がするたびにスマートフォンで時刻を確認するようにしていたのだが、改めて見直すと、その時刻が毎回、ほぼ同じだったのだ。夜の九時十五分から二十分の間。誤差は三、四分程度。偶然にしては揃いすぎていた。
蛇口の「戻り」がそんなに正確なはずがない。
その頃から、私の中で何かが変わり始めた。
ある日の夕方、同期入社の望月くんと雑談をしていたとき、なにげなく私はその話をした。夜に水の音がすること、時刻が揃っていること。望月くんは最初は笑っていたけれど、途中から少し表情が変わった。
「実は俺も、一回だけ聞いたことある」と彼は言った。「残業した日の夜。でも俺、確認しに行けなかった」
「なんで?」と私は聞いた。
「なんか、嫌だったんだよ。音がする前から、給湯室のほうがずっと気になってた。なんていうか、呼ばれてる感じ、みたいな」
彼はそこで話をやめた。冗談めかして「気のせいだけどな」と言って、自分のデスクに戻った。
私はその言葉を、頭の中でしばらく転がしていた。「呼ばれてる感じ」。
それから三日後の夜のことだ。
その日も残業していた。夜の九時を回ったころ、例の音がした。私はいつものように腰を上げて、給湯室に向かった。廊下はいつも通り薄暗く、給湯室のドアが少しだけ開いていた。
私が廊下の途中で足を止めたのは、なぜだったか、うまく説明できない。ただ、その夜は空気が少し違うような気がしたのだ。給湯室のドアの隙間から漏れる、あの黄ばんだ光の色が、いつもより濃いような。水音がいつもより大きいような。
私は廊下の途中に立ったまま、給湯室のドアを見た。
その時、気づいた。
水の音の中に、何か別の音が混じっている。
最初は空調の音だと思った。でも違う。もっと規則的な音だ。一定のリズムで繰り返される、かすかな音。
私はじっと耳を澄ませた。
それは、足音だった。
給湯室の中を、誰かがゆっくりと歩いている音だった。
狭い空間を、行ったり来たりするような、短い往復の足音。蛇口の水音に紛れて、ずっとそこにあったのかもしれない。でも今夜は、はっきりと聞こえた。
私は一歩も動けなかった。
給湯室の中には、誰もいないはずだった。私がオフィスに入る前に、社内に自分以外の人間がいないことは確認していた。最終の施錠担当は私で、入退室の記録も私しかいない。
足音は止まらなかった。ゆっくり、ゆっくりと、短い距離を往復していた。
どのくらいそうしていたかわからない。気づいたら私はオフィスに戻っていて、荷物を抱えて外に出ていた。施錠だけはなんとかして、駐車場に走った。車に乗り込んでから、ひどく手が震えているのに気がついた。
翌日、何事もなかったように出社した。給湯室も、普通だった。誰もおかしなことを言っていなかった。水の音の話を改めてしようとも思えなかった。
でも私はひとつ、確かめたことがある。この建物の古い資料を、総務の棚の隅から引っ張り出して、こっそり眺めた。
竣工図面の端に、手書きの走り書きがあった。「旧給湯室区画、転用」という文字と、日付。日付は四十年以上前のもので、それ以上のことは何も書かれていなかった。「旧」という字が引っかかった。今の給湯室の前に、別の給湯室があったということなのか。それとも、用途が「給湯室」である前に、あの場所は何か別のものだったのか。
調べようとしたが、それ以上の記録は見つからなかった。
今も私は、あの職場で働いている。残業の夜が続く時期には、なるべく九時前に片付けを終えて、帰るようにしている。
水の音は、今でもするのかもしれない。
ただ私は、もう確認しに行かない。
あの廊下の途中で立ち止まった夜のことを、時々思い出す。足音が往復していたあの空間を、誰かがずっとあそこで歩き続けているとしたら、それは一体いつから、そうしているのだろうと。
そして、ひとつだけ、どうしても頭から離れないことがある。
あの足音は、私がドアに近づいた時、止まろうとしていなかった。
でも、速くもなかった。
まるで、私が来ることを、最初からわかっていたみたいに、ちょうどそのくらいのペースで、歩き続けていた。
それだけのことなのだけど、それだけのことが、ずっと引っかかったまま、今日まで来ている。


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