通勤ルートの途中にある古い交差点で、毎回まったく同じ女に、まったく同じ道を聞かれるようになった。最初はただの偶然だと思っていたが、ある夜に気づいてしまった——彼女が聞いてくる場所の名前が、地図のどこにも存在しないことに。
最初に彼女に声をかけられたのは、去年の秋口だったと思う。
僕は当時、県境に近い古い町に暮らしていた。仕事は隣の区画にあるリサイクル業者の事務所で、毎朝おなじルートを自転車で走っていた。駅を使わないぶん、生活道路を縫うような通り道を選んでいて、途中に一か所だけ、ちょっと変わった交差点があった。
変わっている、というのは、大げさな意味じゃない。ただ、その交差点だけ信号がなかった。四方向から道が来ているのに、信号機の柱だけがあって、肝心の信号灯がない。撤去されたのか、設置前に止まったのか、誰に聞いてもはっきり答えてくれなかった。地元では「灯なし四つ角」なんて呼ばれていたらしいが、別に怖い言い伝えがあるわけでもなく、ただそういう名前がついていた。
その朝、僕は少し早起きをして、いつもより時間に余裕があった。交差点を右折しようとしたところで、歩道に立っていた女性から「すみません」と声をかけられた。
三十代くらいだろうか。紺色のコートを着て、大きめのトートバッグを肩にかけていた。顔立ちはおだやかで、疲れた感じはしたけれど、変わった人には見えなかった。
「この辺に『ウラカワ通り』ってありますか」
聞いたことのない名前だった。地名なのか商店街なのか、判断もつかなかった。僕は少し考えてから、「ちょっとわからないですね、すみません」と答えた。女性は「そうですか、ありがとうございます」とだけ言って、軽く会釈した。それだけだった。
特に気にしていなかった。知らない地名を知らない人に聞かれることなんて、珍しくもない。
二度目は、それから三日後のことだった。
やはり同じ交差点、ほぼ同じ時間帯。自転車のブレーキをかけながら交差点に差しかかると、歩道に立っている女性がいた。見た瞬間、なぜか少し体が硬直した。服装が同じだった。紺色のコート、大きめのトートバッグ。顔をよく見ると、先日の女性だった。
「すみません」と彼女は言った。
「この辺に『ウラカワ通り』ってありますか」
まったく同じ言葉だった。
さすがに覚えていましたよ、と言おうとして、でも一瞬躊躇した。先日も同じ場所で聞かれて、答えられなかった。それが恥ずかしいような気持ちもあって、「ちょっとわからないですね、すみません」とまた同じように答えてしまった。女性は「そうですか、ありがとうございます」と言って、会釈した。
家に帰ってから、スマートフォンで「ウラカワ通り」を検索した。どこにも出てこなかった。町名でも、商店名でも、なにも引っかからなかった。
三度目は、また三日後だった。
その日は少し気分が悪くて、自転車を押しながら歩いていた。交差点に近づくにつれて、胸のあたりがざわついた。理由はわかっていた。また彼女がいる気がしていた。
いた。
まったく同じ場所に、まったく同じ服装で立っていた。
「すみません」
「この辺に『ウラカワ通り』ってありますか」
今度は、少し真剣に答えようとした。「その名前、ちょっと心当たりがなくて。地図アプリで調べましょうか」と言いながら、スマートフォンを取り出した。すると女性は、やわらかく首を横に振った。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
そう言って、歩き出した。僕は反射的に後ろを向いたが、もう人影はなかった。曲がり角まで数秒しかなかったのに、どこにも見えなかった。
その日から、気になって仕方なくなった。
職場の先輩に話してみた。「ウラカワ通りって聞いたことありますか」と。先輩はしばらく考えてから、「さあ、聞いたことないな。なんか変な名前だね」と笑った。地元育ちの先輩でも知らない名前だった。
さらに一週間後、また彼女に会った。
今度は少し早めに家を出て、交差点の手前で自転車を止めて待った。彼女がどこから来るのか、見ていようと思ったのだ。しばらくすると、北側の細い道から彼女が歩いてきた。コートは同じ。バッグも同じ。歩き方は、少しゆっくりだった。
交差点のちょうど中心に差しかかったところで、彼女は立ち止まった。あたりをきょろきょろと見回してから、僕に気づいた。
「すみません」
「この辺に『ウラカワ通り』ってありますか」
「あの、」と僕は言った。「前にも同じことを聞いてもらったんですけど、もしかして覚えていませんか」
女性は、きょとんとした顔をした。愛想が悪いわけじゃない。ただ、本当に心当たりがないような顔だった。
「そうでしたっけ。ごめんなさい、よく覚えていなくて」
「何度か、ここで話しましたよ。みんな知らないみたいで……ウラカワ通りって、どんな場所なんですか」
少し間があった。彼女はバッグの肩紐をぎゅっと握ってから、言った。
「昔、住んでいた場所で。でも、今は見つからないんです。ずっと探しているんですけど」
それだけだった。
また「ありがとうございます」と言って、歩き出した。今度は南側の道へ向かった。追いかけようとしたが、なぜか足が動かなかった。
その夜、僕は古い地図を探した。図書館に行けば戦前の地図が閲覧できると聞いたことがあって、翌日休みを取って調べに行った。司書の方に手伝ってもらいながら、この町の昭和初期の地図を広げた。
あった。
「浦川通り」という名前が、地図の端のほうにあった。
ただ、その通りが描かれていた場所は、今の地図では川になっていた。昭和二十年代の水害で地形が変わったらしく、元の道ごと川底に沈んでいるということが、添付されていた古い行政資料に書かれていた。
司書の方が、少し神妙な顔で言った。「この辺の水害は結構大きかったらしくて、何人か行方不明になったそうですよ。記録が残っていないんですけどね」
帰り道、当然のように灯なし四つ角を通った。
誰もいなかった。
それから一か月ほど、彼女に会わなかった。季節が変わって、コートがいるほど寒くなった頃、また交差点に差しかかった。
いた。
紺色のコートに、大きめのトートバッグ。
「すみません」
「この辺に『ウラカワ通り』ってありますか」
何か言おうとした。地図のこと、川のこと、水害のこと。でも、どこから話せばいいのかわからなかった。彼女の顔を見ていると、なにも言えなくなった。
「わからないです、すみません」
気づいたら、また同じように答えていた。
彼女は「そうですか、ありがとうございます」と言って、会釈した。
その時、ふと思ったことがある。彼女は毎回「ウラカワ通り」を探している。でも、見つかったとして——見つかったら、どこへ行くんだろう。
今もたまに、あの交差点を通る。
信号のない、灯だけがない、四つ角を。
彼女に会う時もあるし、会わない時もある。会った時には毎回、同じ問いをかけられる。僕は毎回、同じように答える。そのたびに、何か言おうとして、やめる。
一度だけ、こっそり後をつけてみたことがある。南側の細い道へ入った彼女を、少し距離をとって追った。角を曲がったところで、もう姿はなかった。その先は行き止まりで、古いブロック塀が立っているだけだった。
壁の下の方、苔が張った部分に、うっすらと何かが書いてあった。消えかけていて、ほとんど読めなかった。
でも、かろうじて「浦」という字だけが残っていた。
ただそれだけだ。それ以上のことは、わからない。彼女が誰なのか、なぜ同じ場所で同じことを繰り返しているのか、なぜ僕が毎回声をかけられるのか。
一つだけ、自分の中でずっとひっかかっていることがある。
彼女は毎回「この辺に」と言う。ウラカワ通りが「この辺に」あるか、と。
もしかして、彼女はずっと正しい場所を探しているわけじゃないのかもしれない。探しているというより、確かめているんじゃないか、と。
この交差点が、かつてウラカワ通りと交わっていた場所だということを。
そして、毎回誰かに確かめて、毎回「わからない」と言われて、また歩き出していく。
それが何年続いているのかは、知らない。


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