ある朝から職場の同僚たちが「同じ夢を見た」と話し始め、その夢の内容が少しずつ、確実に変化していった。自分だけが夢を見ていないことに気づいたとき、本当の恐怖が始まった。
最初にその話が出たのは、確か十一月の終わりごろだったと思う。
私が働いているのは、県境の町にある小さな印刷会社だ。社員は二十人ほどで、私は総務に所属している。職場の雰囲気は悪くなくて、同僚たちとも仲がいい。特別なことは何もない、ごく普通の職場だった。
その日の朝、給湯室で同僚の河田さんと鉢合わせたとき、彼女がふっと笑いながら言った。
「ねえ、昨日すごく変な夢見なかった? 廊下がずーっと続く夢」
「廊下?」と私が聞き返すと、河田さんは「そう、なんか古い建物の廊下で、どこまで歩いても同じ景色が続くんだよね。起きたら妙に疲れてて」と言った。
私はその時、特に気にしなかった。夢の話なんて、よくある会話の一つだと思っていた。
でも翌朝、デスクに座った斎藤くんが「俺も昨日変な夢見ましたよ」と言い出した。
「廊下が続く夢ですか?」と河田さんが返すと、斎藤くんが目を丸くした。
「え、なんで知ってるんですか。そうそう、どこまで行っても終わらない廊下で、蛍光灯がチカチカしてて」
二人は顔を見合わせて、「偶然だねー」と笑っていた。その会話を私はぼんやり聞いていて、へえ、と思いながらもすぐに忘れた。
問題は、それが何日も続いたことだ。
次の週になっても、職場のあちこちで「また夢見た」という声が聞こえてくるようになった。営業部の長谷川さん、経理の坂本さん、ベテランのパートさんである三浦さん、若手の岡崎くん。みんなが口をそろえて「廊下の夢」を見ていると言う。
私はある日の昼休みに、思い切って「どんな廊下なの?」と何人かに聞いてみた。すると不思議なことに、みんなの説明がほとんど一致していた。
古い建物の廊下。壁はクリーム色で、ところどころ剥がれている。蛍光灯がいくつか切れていて、薄暗い部分がある。床はリノリウム張りで、歩くたびに少し沈む感じがする。廊下は一直線で、どこまで歩いても出口がない。
「扉はあるの?」と私が聞くと、長谷川さんが「ある。でも全部鍵がかかってて開かない」と答えた。
「人はいないの?」
「いない。自分一人で歩いてるだけ」と坂本さんが言った。「でもなんか、後ろに気配がある気がするんだよね。振り返ると誰もいないんだけど」
その日から私は少しずつ、この話を記録するようになった。誰が見ているか、どんな内容か、細かいところに変化があるかどうか。最初は純粋に「面白いな」という好奇心だったと思う。でも記録を続けるうちに、いくつかのことが気になりだした。
一つ目は、夢を見ている人数が増えていること。十一月末に二、三人だったのが、十二月に入ってから急に増えて、中旬には私が把握しているだけで十二人になっていた。社員二十人のうちの十二人。過半数だ。
二つ目は、夢の内容が少しずつ変化していること。最初は「ただ歩く」だけだったのが、週を追うごとに細部が加わっていった。最初は聞こえなかった「足音」が聞こえるようになった。次に、廊下の突き当たりに「窓」が見えるようになった。そして窓の外には「景色」が広がっているが、それが何の景色なのかは誰も答えられなかった。
三つ目は、そして一番気になることだったのだが、私だけが一度もその夢を見ていない、ということだった。
夢というのは共有できるものではないし、私が見ていないこと自体はおかしくない。でも十二月の半ばを過ぎると、なんとなく職場の空気が変わってきた気がした。夢を見ている人たちの間に、うまく言えないけれど、一種の連帯感のようなものが生まれていた。「また見た?」「今日は窓のところまで行けた」「俺は行けなかった」みたいな会話が日常的に交わされるようになって、私はその輪の外に置かれているような感覚があった。
見ていない私が異質なのか、見ている彼らが異質なのか、その時点ではまだわからなかった。
十二月の終わりに近づいたころ、河田さんが私に言った。
「ねえ、あなた本当に一回も見てない?」
「うん、一回も」
「そっか」と彼女は言って、少し考えてから「実はね、夢の中に最近、人が出てくるようになったんだよね」と話してくれた。
「人?」
「そう。廊下の遠い方に、誰かが立ってるの。こっちに背を向けて、ずっと突き当たりの窓を見てる。近づいても近づいても、距離が縮まらなくて」
「それ、誰だかわかるの?」
河田さんはしばらく黙ってから、「わかんない。でも、職場の誰かだって感じがする」と言った。
その日の帰り道、私は駅まで歩きながら考えた。廊下に立っている誰か。窓の外を見ている誰か。職場の誰か。
そこで初めて、一つの考えが浮かんだ。
夢を見ていない人間が、夢の中に出てくるのではないか。
馬鹿げた話だと思った。でも確かめたくて、翌日、河田さんと坂本さんと斎藤くんを別々につかまえて、それぞれに「廊下に立ってる人、どんな服装だった?」と聞いた。
三人とも答えが一致した。
紺色のカーディガン。
私がその日着ていたのと同じ色だった。いや、正確に言えば、私がよく着ていた服だ。職場でも何度も着ている。それだけでは何の証拠にもならない。でも、なぜかその時、背筋が冷たくなった。
年が明けてから、事態は少し変わった。
夢を見ている人の数が、逆に減り始めたのだ。十二月のピーク時には十二人いたのが、一月に入ってから「最近見なくなった」と言う人が増えてきた。でも全員ではなかった。河田さん、斎藤くん、長谷川さんの三人は、年明けになっても夢を見続けていた。
そして夢の内容が、また変わっていた。
廊下に立っていた人物が、こちらを向いた。
河田さんから聞いた時、私は「顔はわかった?」と聞いた。河田さんは首を振った。「暗くてよく見えない。でもこっちを向いて、何か言ってる気がした」。
「何を言ってるか聞こえた?」
「聞こえなかった。でも、なんか、手招きしてた」
その話を聞いた翌朝から、私は夢を見るようになった。
最初の夢は、廊下じゃなかった。ただ暗い部屋の中に立っていて、どこかの方向に窓があって、薄い光が差し込んでいた。それだけの夢だった。でも起きた時に、妙に体が重くて、頭の奥が鈍く痛んだ。
河田さんたちに話すと、三人とも「ああ、最初はそんな感じだよ」と言った。まるで自分たちが先に経験した手順を知っているみたいに。
その後の一週間、私の夢は毎晩続いた。暗い部屋から始まって、だんだん廊下が見えてきて、蛍光灯の光が見えて、床のリノリウムの感触がわかるようになってきた。彼らが言っていた通りの廊下だった。ただ違ったのは、私の夢には最初から廊下の突き当たりに人が立っていなかったことだ。廊下には私一人だった。
二月に入ったある朝、河田さんが出社してきた顔色がひどく悪かった。
「どうしたの」と聞くと、「昨日の夢で、廊下の人の顔が見えた」と言った。
「誰だったの?」
河田さんは少し迷ってから、「あなたじゃなかった」とだけ言った。
「じゃあ誰?」
「わからない。知らない顔だった。でも、その人がね」と河田さんは声を落とした。「その人が私に、ここじゃないって言ったんだよ」
「ここじゃない?」
「うん。あなたが探してるのはここじゃないって。そう言って、扉の一つを開けてくれたの。鍵がかかってるはずだった扉なのに」
「それで、中に入ったの?」
「入ったよ」と河田さんは静かに言った。「でも何もなかった。ただ、また廊下があった」
その日の夕方、斎藤くんと長谷川さんも、口をそろえて同じことを言った。夢の中の知らない人物に扉を開けてもらった。中にはまた廊下があった。
三人とも、それ以降は夢を見なくなったと言った。まるで終わりがきたみたいに、ぱたりと。
でも私だけは、まだ見ている。
今も毎晩、あの廊下を歩いている。蛍光灯が切れかけた薄暗い廊下を、一人で、どこまでも。扉はたくさんあるが、私が触ると全部かたく閉まったままだ。突き当たりには窓がある。窓の外が何なのか、いつも靄がかかっていてよくわからない。
後ろには、気配がある。振り返っても誰もいない。でも、確かにいる。
先週、河田さんに「あなたはまだ夢見てるの?」と聞かれた。「うん」と答えると、彼女は少し申し訳なさそうな顔をした。
「なんで私だけ終わらないんだろう」と言うと、河田さんは少し考えてから、こう言った。
「もしかしたら、廊下の人がまだ来てないんじゃないかな。あなたを呼びに来る人が」
私はその言葉の意味を、なんとなくわかっているようで、わかりたくない気持ちがある。
廊下の人は、次の人を連れてくるために現れる。河田さんたちは、夢を終わらせてもらった。じゃあ、私を終わらせに来る人は、誰なのか。
そして、私の夢の廊下を歩いている誰かのことを、今は考えないようにしている。
職場に、最近入ってきた派遣社員の子がいる。先週から来ている。
今朝、給湯室でその子が私に話しかけてきた。
「あの、変な話なんですけど」と彼女は言った。「昨日、すごく変な夢を見て」
私は、お湯が沸くのを待ちながら、ゆっくりと振り返った。
「廊下の夢?」
彼女が目を丸くした。
私はなんと答えればいいかわからなくて、ただ「そっか」とだけ言った。


コメント