誰も知らなかった、あの同僚のこと

職場に馴染んでいたはずの同僚・佐伯さんが、ある日を境に誰の記憶からも消えていく。彼女は本当に存在していたのか、それとも最初から——。

私が今の会社に転職してきたのは、三年ほど前のことだった。

業種は小さな印刷会社で、従業員は全部合わせても二十人に満たない。社員同士の距離が近くて、休憩室で誰かとすれ違えば必ず挨拶が交わされるような、そういう規模の職場だった。転職して最初の一ヶ月は、名前を覚えるだけで精一杯だった記憶がある。

佐伯さんのことを初めて意識したのは、入社してから二週間ほど経ったころだったと思う。

営業部のデスクが並ぶフロアで、私は経理のアシスタントとして働いていた。佐伯さんはデザイン部に所属していて、フロアの仕切りを挟んだ向こう側にいた。直接やり取りすることはあまりなかったけれど、印刷データの確認が必要なときに書類を持ってきてくれたり、休憩室で軽く言葉を交わしたりするくらいの関係だった。

印象としては、物静かで、でも感じの悪い人ではなかった。三十代前半くらいに見えた。いつも少し首元の詰まった服を着ていて、髪は短めで、特別目立つ外見でもなかった。笑うとき口元だけで笑うような人だった。

特に仲が良いわけでも、苦手なわけでもない。そういう距離感の同僚というのは、職場には必ず何人かいるものだと思う。

異変に気づいたのは、入社からおよそ半年が経ったころだった。

あれは確か、月末の締め作業が終わって、ちょっとした慰労の意味で社員みんなで近くの居酒屋に行ったときのことだった。十五人くらいが集まって、いくつかのテーブルに分かれて座った。私は上司の田中さんや、営業の若手の子たちと同じテーブルになった。

そのとき、田中さんが「そういえば今日、デザインの人たちは全員来てるの?」と聞いた。

私は何気なく答えた。「佐伯さんは来てないみたいですね、今日いましたっけ」

田中さんが、少し間を置いてこちらを見た。

「佐伯? 誰?」

私は一瞬、耳を疑った。田中さんは入社して十年以上になるベテランで、社内のことなら何でも知っているような人だった。冗談を言うような場面でもなかった。

「えっと、デザイン部の佐伯さんです。いつも首元の詰まった服を着てる方で……」

「デザイン部って、今は橋本と村瀬と、あと梶田さんでしょ。それ以外にいたっけ?」

隣に座っていた営業の子も首をかしげていた。「私も知らないです、その人」

テーブルの空気が何となく変になって、私は曖昧に笑って話題を変えてしまった。でも、頭の中ではずっとそのことが引っかかっていた。

翌日、会社に来てから私はさりげなく社内を見渡した。佐伯さんのデスクは、デザイン部のコーナーの端にあった……はずだった。でも、その日改めて確認してみると、そこにあったのは物置のようなスペースで、デスクそのものが見当たらなかった。備品の箱が積まれていて、とてもそこに人が座っている雰囲気ではなかった。

気のせいかと思った。レイアウトが変わったのかもしれない、と。

それから私は、デザイン部の橋本さんに聞いてみることにした。橋本さんは年齢が近くて、入社時に一番親切にしてくれた人だった。

「ねえ橋本さん、佐伯さんって最近どこにいるの? デスクの場所変わりました?」

橋本さんは「佐伯さん?」と繰り返して、少し考える顔をした。本当に心当たりがないという顔だった。作り話をしているわけでもなさそうだった。

「ちょっとわかんないや。誰かと混同してない? うちの部署、そんな名前の人いないと思うけど」

私はその日から、誰に聞いても同じ反応が返ってくることに気がついていった。

佐伯さんは、誰の記憶にも存在していなかった。

でも、私の記憶の中には確かにいた。

書類を届けてくれたこと、休憩室でコーヒーをいれながら「今日は暖かいですね」と話しかけてきたこと、ロッカールームで一緒になったとき、静かに会釈してくれたこと。それらは全部、ひとつひとつ鮮明に覚えていた。ぼんやりした印象ではなく、場所の匂いとか光とか、そういうものまで一緒に記憶していた。

私は自分の記憶に自信があるほうだと思っていた。だからこそ、余計に怖かった。

もしかしたら社内報や名簿を確認すれば何かわかるかもしれないと思って、経理の仕事の中で自然に確認できる機会を使って社員名簿を見た。「佐伯」という名前はどこにもなかった。過去の在籍者リストを見ても、その名前は出てこなかった。

ただ、ひとつだけ気になることがあった。

名簿の中に、小さな空白があった。

データの形式的には、人数分の行が均等に並んでいるはずなのに、デザイン部の欄だけ、一行分だけ妙に隙間が空いていた。削除された行の跡のような、そういう空白だった。私以外が見てもわからないような微妙な差だったけれど、毎日データを扱っている私には、何かを消したあとのように見えた。

それからしばらく経ったある日の昼休み、私はひとりで休憩室にいた。

誰もいないと思っていたその場所に、コーヒーカップが一つ置いてあった。湯気が立っていた。飲みかけだった。

席を外しているだけかもしれない、と思って私は自分のコーヒーをいれた。でも十分待っても、誰も戻ってこなかった。コーヒーは冷めていった。

カップを片付けようとして近づいたとき、私は気づいた。

そのカップには、うっすらと口紅の跡がついていた。

ベージュがかった、落ち着いた色の口紅だった。

私はその色に、見覚えがあった。佐伯さんがいつもしていた、あの口紅の色に。

手が止まった。しばらくそのまま立っていた。カップはやがて誰かに片付けられたのか、気づいたときにはなくなっていた。

あの日以来、私は職場でひとつのことを気にするようになった。

人と人の間に、何か隙間のようなものはないかということだ。たとえば会議室で全員が席についているとき、ふとした拍子に「あれ、もう一人いたような気がする」という瞬間がないか。廊下ですれ違った人の数と、後からフロアにいる人の数が合わないような感覚はないか。

明確にわかる何かがあるわけではない。でも、ときどきある。

フロアの端、物置になっているあのスペースを、私はなるべく見ないようにしていた。でも、どうしても視界の端に入ってしまう瞬間がある。

そういうとき、何となく気配のようなものを感じる気がする。

気がするだけかもしれない。そう思うようにしている。

ただ最近、一つだけ妙なことがあった。

私は仕事用に手帳を使っていて、入社した当初から同じシリーズのものを買い続けている。去年の手帳は机の引き出しにしまったままになっていたのだけれど、先日何となく読み返していたら、七月の週のページに、自分で書いた覚えのないメモが見つかった。

「佐伯さん→データ確認、午後に」

私の字だった。間違いなく。

でも、書いた記憶がまったくなかった。あのころ、まだ私は佐伯さんのことを何とも思っていない時期だったはずで、わざわざ名前をメモする理由もなかったはずだった。

ページの日付は、ちょうど居酒屋に行った日の一週間前だった。

あの場所に、誰かがいたのは確かだと思う。

私だけが覚えているのか、それとも私だけが間違えているのか、今もわからないでいる。

ただ、あの空白の一行が頭から離れない。

名簿に残っていた、誰かがいた跡のような、あの隙間が。

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