毎回、同じ場所で道を聞いてくる人の話

通勤路の同じ交差点で、同じ女性に、同じ質問をされ続けた。最初は偶然だと思っていた。

これを書こうと決めたのは、あの女性のことをもう誰にも話さないでおこうと思ったのに、それでも頭から離れないからだ。話すことで少し整理できるかもしれないし、あるいは誰かが「それって、こういうことじゃないか」と教えてくれるかもしれない。正直、今でも答えが出ていない。

僕が今の会社に転職したのは、三年ほど前のことだ。職場は県境に近い、小さな工業都市にあった。人口は多くないが、古くからの住宅地と新興の団地が混在していて、どこか時代のズレを感じさせる不思議な場所だった。僕は職場から徒歩二十分ほどのところにアパートを借りて、毎日同じ道を通って出勤していた。

問題の交差点は、そのルートの中間あたりにある。信号のない、やや広めの十字路で、角に古い理髪店の建物があった。今は閉まっていて、シャッターに色褪せた貼り紙がしてある。その交差点を左折すると、川沿いの遊歩道に出て、そこを抜けると職場のある通りに出る。毎日必ず通る場所だった。

最初に声をかけられたのは、転職して一ヶ月ほど経った秋の朝だった。

「すみません、緑町の方向ってどっちですか」

振り向くと、四十代くらいの女性が立っていた。グレーのコートに、黒いショルダーバッグ。髪は肩のあたりで無造作にまとめていて、特に目立った特徴はない、ごく普通の印象の人だった。緑町というのはこの地区の地名で、ちょうど僕が来た方向にある住宅地のことだ。

「あっちの方向ですよ」と僕は答えた。「この交差点を右に行って、しばらく直進すると看板が見えてきます」

「ありがとうございます」

それだけで、女性は歩き去った。僕も気にせず職場に向かった。

二度目は、それから三週間後だった。

またその交差点を歩いていると、後ろから声がかかった。

「すみません、緑町の方向って、わかりますか」

振り向いて、一瞬止まった。同じ女性だった。グレーのコート、黒いショルダーバッグ、肩のあたりでまとめた髪。前回と全く同じ格好だった。ただ、その日は曇っていて少し薄暗かったから、見間違えかもしれないとも思った。

「緑町なら、この交差点を右に行って、まっすぐです」

「ありがとうございます」

また同じ返事をして、女性は歩いて行った。今度は少し長く見送った。背中が遠ざかっていくのを見ながら、なんとなく嫌な気持ちが残った。でもそのときはまだ、二度あることは三度あると思っていた程度だった。

三度目が来たのは、また数週間後の朝だった。

交差点に差し掛かったとき、もう来るかもしれないという妙な予感があった。心臓がすこし速く打っているのがわかった。

「すみません」

来た。後ろから、同じ声だった。

振り向くと、やはりいた。グレーのコート。黒いショルダーバッグ。肩でまとめた髪。完全に同じだった。

今度は僕の方から先に話した。「緑町ですよね」

女性は少し首を傾けた。「え、はい、そうです。わかりましたか」

「以前も聞かれたので。あの、一度じゃなくて、二度ほど」

女性の表情がわずかに変わった。笑ったような、困ったような、どちらとも取れる顔をした。「そうでしたか。ごめんなさい、覚えていなくて。方向音痴なものですから」

「右に行って、まっすぐです」

「ありがとうございます」

また、同じ流れで終わった。

その日の夜、僕は手帳に日付を書き留めた。いつ、どんな状況で声をかけられたか。三度で終わればただの偶然だが、四度目があるなら、これは何か別のことだと思ったからだ。

四度目は、二週間後だった。

その日は僕も少し早めに家を出て、交差点の手前で立ち止まって待ってみた。おかしな行動だとわかっていたが、どうしても確かめたかった。五分ほど経ったころ、後ろから足音がした。振り返ると、いた。

「すみません、緑町の――」

「わかっています」と、僕は言った。「あなた、以前にも三回、ここで同じことを聞いていますよね」

女性は止まった。今度は笑わなかった。「……三回、ですか」

「はい。全部この交差点で、全部同じ格好で、全部緑町への道を聞いている」

「そうでしたか」

女性はそれだけ言って、少し視線を落とした。次の言葉を待っていたが、何も来なかった。

「緑町には何があるんですか」と、僕は聞いた。

「実家があります」

「毎回迷うんですか、そんなに近くても」

「近くないんです」と女性は言った。「ここから行くと、遠回りになるから」

その意味がよくわからなかった。緑町はこの交差点から右に二百メートルほどで入口があるはずで、「遠回り」という感覚がどこから来るのか理解できなかった。

「じゃあ、どこから来てるんですか」

女性はまた少し首を傾けた。「わからないんです、最近」

その返答が、一番怖かった。

おかしい、と思いながらも僕はいつも通り「右に行って、まっすぐです」と言った。女性は「ありがとうございます」と言って、今度は右の方向へ歩いていった。

僕はその背中をずっと目で追った。角を曲がるまで見ていた。消えた。

職場に着いてから、地図を広げた。この地区の地図を念入りに見た。緑町の入口は、確かに交差点から右に行けばある。別に難しい道じゃない。それなのに彼女は毎回迷っている。しかも「どこから来ているかわからない」と言った。

その週末、僕は地元の図書館に行って、この辺りの古い地図を探してみた。特に理由はないが、何かわかるかもしれないと思ったからだ。司書に頼んで、三十年ほど前の住宅地図を出してもらった。

今の緑町のあたりには、昔は小さな工場と農地が広がっていたらしい。住宅地になったのは比較的新しい。ただ、問題の交差点、つまり古い理髪店の角の部分だけが、昔の地図でも同じ形で残っていた。建物は違うが、道の形は全く同じだった。

司書の方に何となく聞いてみた。「この交差点って、昔から何かあったんですかね」

司書は少し困ったような顔をした。「詳しくは知らないけれど、角の理髪店が閉まる前、何かあったって話は聞いたことがあります。ずいぶん前ですが」

「何かというのは」

「さあ。私も又聞きで、だから確かなことは言えないんですけど、あそこで迷子になった人がいたとか、そういう話だったと思います。迷子というか、道がわからなくなった人、かな」

それだけだった。深い話にはならず、僕も深く聞けなかった。

五度目は、それから一ヶ月後に来た。

その日は珍しく雨が降っていて、僕は傘をさして歩いていた。交差点に差し掛かる少し前から、妙な緊張感があった。今日は来るかもしれない。でも雨の日は来ないかもしれない。そんなことを考えながら角に近づいたとき、傘越しに人の気配を感じた。

「すみません」

もう驚かなかった。振り返ると、やはりいた。グレーのコート、黒いショルダーバッグ、肩でまとめた髪。雨なのに傘を持っていなかった。濡れていなかった。

「緑町ですよね」と僕は言った。

「そうです」

「また来ましたね」

「また来ました」と彼女は言った。今回は素直に認めた。

「前回、どこから来てるかわからないって言ってましたよね」

「言いましたね」

「今日はどこから来ました」

女性は一瞬、本当に一瞬だけ、どこかを見るような目をした。僕の後ろではなく、少し斜め上の方を。そして「そこです」とだけ言った。

どこを指しているのかわからなかった。僕の後ろには来た道があるだけで、特に何もない。

「右に行って、まっすぐです」

「ありがとうございます」

今度こそ確かめようと、女性が歩き始めた直後に僕も動いた。少し距離を置いて、同じ方向に歩いた。彼女が右折するところを見届けて、僕もゆっくりついていこうとした。

角を曲がった。

いなかった。

まっすぐな道が続いていて、人影は一つもなかった。雨が降っているから見通しも悪かったが、それにしても消えるには時間が早すぎた。建物の入口も、路地も、すぐには見当たらなかった。

僕はしばらくその場に立っていた。雨が傘を叩く音だけがしていた。

あれから七ヶ月ほど経った。あの女性にはそれ以来、一度も会っていない。五度で終わったのか、それとも僕が何かを変えてしまったのか、それもわからない。

ただ、一つだけ気になることがある。

あの交差点を通るたびに、閉まっている理髪店のシャッターを見てしまう。色褪せた貼り紙がある。ずっと気にしていなかったが、ある日ようやくその文字を読んだ。

「長い間ありがとうございました。○月○日をもって閉店いたします」

日付が書いてあった。僕がこの町に来る、三年前の秋の日付だった。

最初に女性に声をかけられた、あの朝と全く同じ日付だった。

それが何を意味するのか、今もわからない。ただ、今でも毎朝あの交差点を通るとき、後ろから声がかかるような気がして、少しだけ足が速くなる。

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