大学の友人が急に引っ越した後、その部屋を片付けに行った男が気づいた——荷物はすべて運び出されたはずなのに、部屋の中に誰かが暮らしている痕跡だけが、少しずつ増えていく。
大学を卒業してから三年が経つ頃、俺は久しぶりに昔の友人と連絡を取り合うようになっていた。
その友人——仮に「カワハラ」と呼ぶことにする——は、大学時代に同じ学科にいて、二年生のときに同じアパートの隣同士になった付き合いだった。特別に深い友情というわけでもなかったが、卒業後もたまにメッセージをやり取りするくらいの関係が続いていた。
カワハラが引っ越すと聞いたのは、ある秋の終わりのことだった。
「急で悪いんだけど、来月頭には出ないといけなくて」という短いメッセージが届いたのが最初だった。理由を聞くと、仕事の都合で県境を越えた場所に異動になったのだという。準備がバタバタしていて、まだ荷物の整理も終わっていないと愚痴をこぼしていた。
俺は特に深く考えることもなく、「手伝おうか」と返信した。翌週末、俺はカワハラのアパートへ向かった。
そのアパートは、俺が学生時代から知っている場所だった。築年数がそれなりに経っていて、外壁がうっすらと苔色を帯びている三階建ての建物だ。カワハラは卒業後もそこに住み続けていて、一階の角部屋を借りていた。
当日、カワハラは玄関で俺を迎えてくれたが、どこかぼんやりとした表情をしていた。「忙しいのかな」と思いながら部屋に入ると、確かに荷物はまだかなり残っていた。段ボールの山があちこちに積まれ、本棚は半分空になっていて、床には梱包テープと剥き出しのコードが散らばっていた。
俺たちは午前中いっぱいをかけて荷物をまとめた。昼過ぎにはトラックの業者が来て、大物の家具を運び出していった。作業が一段落したところで、カワハラが「あとは細かいものだけだから、今日中に全部持ち出せると思う」と言った。
「じゃあ残りは俺も手伝うよ」と言うと、カワハラは少し間を置いてから、「いや、大丈夫。あとは俺一人でやる」と返した。
そのときの声のトーンが、なんとなく引っかかった。断り方が不自然というほどではないが、どことなく急いでいる感じがした。でも俺はそれ以上は何も言わず、夕方には先に帰った。
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問題が起きたのは、それから二週間ほど経ってからだった。
カワハラから連絡が来て、「部屋の退去確認に立ち会ってほしい」と頼まれた。管理会社との書類手続きに証人が必要らしく、「顔見知りが一人いると助かる」という話だった。特に断る理由もなかったので、俺は了承した。
指定された日の午後、俺はアパートに着いた。カワハラはすでに外で待っていて、管理会社の担当者——四十代くらいの男性——と一緒にいた。三人で一階の角部屋に向かい、担当者が鍵を開けた。
部屋の中は、きれいに空になっていた。
荷物は何一つなく、床も掃き清められていた。カーテンも外されていて、窓から秋の白っぽい光が差し込んでいた。担当者は部屋の各所を確認しながらチェックリストに書き込んでいった。俺はただ突っ立っていた。
確認が終わると担当者は「問題ありません」と言い、鍵を受け取って先に外に出た。俺とカワハラが玄関を出ようとしたとき、俺は何気なく振り返った。
空っぽのはずの部屋の、奥の壁際に、コップが一つ置いてあった。
白い陶器のコップで、何かが入っているのか、底が少し重そうに見えた。
「あれ、荷物じゃないの」と俺が言うと、カワハラは振り返って一瞬硬直した。「……捨て忘れた」とだけ言い、戻って拾おうとしたが、担当者に「廃棄は管理会社で処理しますので大丈夫ですよ」と止められた。カワハラはそれ以上何も言わなかった。
—
その後、俺はカワハラが引っ越した先に一度だけ荷物を届けに行く用事ができた。県境近くの小さな町で、片道二時間ほどかかる場所だった。
カワハラの新しい部屋は、前のアパートとは対照的にこぢんまりとした場所で、窓が小さく、日中でも少し暗い印象があった。荷物を届けてしばらく話していると、カワハラが急に「あの部屋さ、後悔してる」とつぶやいた。
「引っ越しのこと?」と俺が聞くと、カワハラは首を振った。「あの部屋に長く住みすぎた、ってこと」
どういう意味かと聞くと、カワハラはしばらく黙ってから、ぽつりぽつりと話し始めた。
「最初は気のせいだと思ってたんだよ。引っ越す半年くらい前から、なんか部屋の中の物が微妙にずれてることがあって。俺、几帳面じゃないから最初は自分が動かしたんだと思ってた。でもなんか、ずれ方が変なんだよ。朝起きたら椅子の向きが変わってるとか、台所の食器が一枚だけ棚の端に移ってるとか」
俺は黙って聞いていた。
「で、ある夜、台所で水を飲もうとしたら、コップが一個足りないことに気づいたんだ。棚に五個あったはずのコップが四個しかなくて。どこ探してもなくて。それで翌朝起きたら、テーブルの上に置いてあった。使ったあとみたいに、底が濡れてた」
俺はそこで、退去のときに見たあのコップのことを思い出した。でも、そのときはまだ言えなかった。
「管理会社に言ったの?」と俺が聞くと、「言えなかった」とカワハラは言った。「だって証拠がないし、俺が寝ぼけてるって言われるのが目に見えてた。それに……なんか言ったら、もっとはっきり何かが起きそうで怖かった」
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それから少しして、俺はある事情で再びあのアパートの近くを通ることになった。用事のついでに、なんとなく建物の前を通り過ぎた。
一階の角部屋には、もう明かりがついていた。新しい入居者が決まったのだろう。カーテンも変わっていて、白と淡いグレーの模様のものが窓に引かれていた。
俺は特に気にせず帰るつもりだった。ところが、歩き始めてすぐ、もう一度だけ振り返った。
窓のカーテンの端が、少しだけめくれていた。
そして、その隙間から、部屋の中に明かりがついているのに、人影のようなものが、こちらを見ていた。
—
俺がカワハラにそのことを話したのは、さらに一ヶ月ほど経ってからだった。カワハラは電話口でしばらく沈黙して、それから「やっぱりな」と言った。
「やっぱりって、何が?」と俺は聞いた。
「あの部屋さ、俺が入居する前にも、一度同じようなことがあったらしくて。前の住人が半年も経たずに出て行ったって、当時の管理人さんから聞いてたんだよ。でもそのときは、まあ引っ越しなんてそんなもんだろって思って気にしなかった」
「前の住人も、物がずれてたの?」
「そこまでは聞いてない。でも……引っ越した後も、その人、あの部屋に戻ってきてたって話は聞いた」
「戻ってきてた? どういうこと」
カワハラはまた少し黙ってから、「管理人さんが言ってたんだけど、前の住人が退去した後の数日間、部屋の鍵が閉まってるのに、中から物音がしてたことがあったって。で、マスターキーで確認しに行ったら、何もなかったって」
「じゃあ、今の新しい入居者は」と俺が言いかけると、カワハラが「知らない方がいいんじゃないかな」と言って、話題を変えた。
—
あれから半年以上が経った。
あのアパートの前を通ることは、もうほとんどない。でもたまに、カワハラとメッセージのやり取りをしていると、ふと思い出すことがある。
退去のとき、空っぽの部屋の奥に置かれていたあのコップのこと。
あれは、本当にカワハラが捨て忘れたものだったのだろうか。
それとも、その部屋に住んでいた何かが、「まだここにいる」と示すために置いたものだったのだろうか。
俺には、今もわからない。ただ一つだけ気になっていることがある。
カワハラは、引っ越した後も、時々「昨夜また夢を見た」とメッセージを送ってくることがある。内容は聞いていない。聞くたびに、「あの部屋の話?」と返したくなるのを、俺は毎回こらえている。
聞いてしまったら、何かが変わってしまう気がして。


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