空室のはずの隣室のベランダに、毎朝、誰かの洗濯物が干されていた。管理会社は「入居者はいない」と言い続けたが、物干し竿に掛かった衣類は、日を追うごとに確実に増えていた。
あの部屋に引っ越してきたのは、三年前の春のことだった。
職場から電車で三駅、築二十年ほどの古いアパートで、外壁のタイルが所々欠けていたけれど、日当たりだけは良かった。二階建ての二階、角部屋。隣の部屋との間に小さな仕切り壁があって、それぞれのベランダが横に並ぶ構造になっていた。
引っ越し当日、不動産屋の担当者に「お隣は?」と聞いたことを覚えている。担当者は書類から目を上げもせず、「現在空室です」と答えた。しばらくはお静かに使えますよ、と愛想よく笑っていた。
最初の一ヶ月は、本当に何もなかった。
朝起きてコーヒーを淹れ、ベランダに出て外の空気を吸う。それが私の習慣で、向かいのマンションや下の駐車場を眺めながら、ぼんやり一日のことを考える。隣のベランダは、いつも何もなかった。物干し竿だけが一本渡してあって、ひっそりと風に揺れていた。
おかしいと思い始めたのは、引っ越してから六週間ほど経った朝のことだ。
いつものようにベランダに出たとき、ふと視線が横に流れた。隣の物干し竿に、タオルが一枚かかっていた。
薄いベージュ色の、どこにでもあるようなフェイスタオルだった。乾いているのか濡れているのかも、仕切り越しではよくわからない。私はしばらくそれを見て、ああ入居者が決まったのかな、と思った。それだけだった。
だが次の朝も、その次の朝も、タオルは同じ場所にかかったままだった。洗濯物を取り込んで、また新しいものを干す、という気配がまったくない。同じタオルが、ずっとそこにある。
一週間が過ぎた頃、ようやく管理会社に電話した。引っ越しの挨拶もないし、名前も知らないし、念のため確認しておこうと思っただけだった。
電話口の担当者は、少し間を置いてから言った。
「隣室ですか。現在も空室のままですよ」
空室。
じゃあ、あのタオルは何なんですか、と聞いた。
「タオル? ちょっと確認してみます」
その後、折り返しの電話はなかった。
翌朝、ベランダに出ると、タオルはまだそこにあった。それどころか、その横に、白いシャツが一枚追加されていた。長袖の、ごく普通の白いシャツ。サイズ感はよくわからない。ただ、昨日まではなかったものが、今朝はある。
私は自分の目を疑って、一度部屋に戻り、また出た。シャツはある。タオルもある。風に揺れている。
もう一度、管理会社に電話した。今度は少し語気を強めて、「昨日と比べて洗濯物が増えているんです」と告げた。担当者は「確認します」を繰り返すばかりで、また折り返しの電話はなかった。
その週の金曜日、私は思い切って直接確認することにした。
隣の部屋のドアをノックした。返事はなかった。ドアに耳をあてると、かすかに空気の籠もった匂いがした。誰も生活していない部屋の、乾いた、少し黴っぽい匂い。住んでいる人間の気配が、まるでなかった。
でも、洗濯物はある。
その夜、寝付けなかった。天井を見ながら、ぐるぐると考えた。不法侵入者が昼間だけ来て洗濯をしている? いや、洗濯機の音は一度も聞いていない。では外で洗ったものを持ってきて干しているのか。なんのために。なぜこのアパートの、この部屋のベランダに。
翌週の月曜日。
ベランダに出ると、洗濯物がさらに増えていた。
タオルと白いシャツに加えて、くすんだ水色のカーテン地のようなもの、紺色の靴下が二足、それから——よくわからない形の、灰色の布きれが一枚。布きれ、と言うしかない。何かの衣類なのか、雑巾なのか、判別がつかないものだった。
不思議なのは、物干し竿に掛かり方が整然としているということだった。ぐちゃぐちゃに投げかけられているのではなく、きちんとハンガーに通されていたり、ピンチで留められていたりした。誰かが丁寧に干した跡がある。
私はそこで初めて、本当に怖くなった。
管理会社にもう一度電話して、「隣の鍵を持って確認に来てください」と強く言った。担当者は「それはちょっと……」と言いよどんだが、私が「警察に相談します」と言うと、「わかりました、今週中に確認します」という返事をもらった。
水曜日の昼、管理会社の担当者が来た。若い男性で、少し申し訳なさそうな顔をしていた。私も立ち会いの形で、隣の部屋のドアを開けてもらった。
中は、空だった。
家具は何もない。床に薄く埃が積もっていた。押し入れを開けても、何もない。台所の下の扉を開けても、何もない。人が生活している痕跡が、どこにもなかった。
「やっぱり空室ですね」と担当者は言った。
「でも洗濯物が——」
「あ、ベランダ確認しますか」
担当者がベランダの窓を開けた。
物干し竿に、洗濯物があった。タオルと白いシャツと、水色の布と、靴下と、あの灰色の布きれ。ぜんぶある。担当者はしばらくそれを見て、「これは……」と言ったきり黙った。
「誰かが干したんですよね」と私は言った。
「鍵は管理会社で保管していますし、合い鍵を渡した形跡もないんですが」
担当者はスマートフォンで写真を撮り、「調べます」と繰り返した。洗濯物は、そのまま置いていった。回収していいものかどうか判断できなかったのだろう。
その夜、私は隣のベランダを見続けた。
夜の十時、十一時、日付が変わるまで、ときどき窓から覗いた。人影はなかった。洗濯物は風に揺れているだけで、誰かが取り込む様子も、新しいものを追加する様子もなかった。
翌朝。
新しい洗濯物が、一枚増えていた。
肌着のようなもので、薄い黄色をしていた。小さかった。子供のサイズか、あるいは非常に体の小さな大人のものか。
私はそこで、ようやく別のことが気になり始めた。
洗濯物の量が増えるたびに、それが「誰かの一日分の生活」を想像させるということだ。タオルがあって、シャツがあって、靴下があって、肌着がある。まるで一人の人間が毎日を過ごしながら、少しずつ洗い物を出しているような——そういう積み重なり方をしている。
でもその人間は、どこにいるのか。
部屋は空だ。生活の痕跡がない。でも洗濯物だけが、確かに増えていく。
管理会社からは、一週間後に「専門業者に調査を依頼する」という連絡が来たが、それ以上のことは何も教えてもらえなかった。私はその間、毎朝ベランダに出るのが怖かった。でも出ずにはいられなかった。
調査の当日、業者が来た日の朝、私はいつものようにベランダに出た。
洗濯物が、なかった。
物干し竿だけが、からっぽになっていた。あれだけ積み重なっていたものが、ぜんぶきれいになくなっていた。
業者は室内を点検し、「異常なし」と言って帰った。担当者も、「とりあえず問題は解決されたようですね」と言った。
それから二週間、隣のベランダは空のままだった。
私は少しずつ、また朝の習慣を取り戻した。コーヒーを淹れて、ベランダに出て、外の空気を吸う。隣は何もない。物干し竿が一本、風に揺れているだけ。
何も変わっていない、あの最初の頃に戻ったんだ、と思い始めていた。
それが、先週の話だ。
昨日の朝、ベランダに出たとき、隣の物干し竿に——何かがかかっているのに気づいた。
小さな白いタオルが、一枚。
薄いベージュではない。真っ白な、新しいタオルだった。
最初の頃とは、違う。
私はそれを見て、部屋に戻った。管理会社に電話しようと思ったけれど、手が止まった。何を言えばいいのか、わからなかった。「また始まりました」と言ったところで、何が変わるのか。
今朝もベランダに出た。
タオルの隣に、何かが増えていた。
私はそれを確認して、部屋に戻り、鍵をかけた。
今もまだ、ベランダの窓を開けられずにいる。
あの灰色の布きれが、最初のタオルの隣にかかっていた。あの、何かの衣類なのか雑巾なのか判別がつかない、あれが。
どこかに仕舞われていたのか、それとも最初からずっとそこにあったのか。
私にはわからない。ただ、もう一度始まったということだけが、わかっている。

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