引っ越しから三ヶ月後、旧居の郵便受けに自分宛の手紙が届いていると元隣人から連絡が来た。差出人も内容も、少しずつ、おかしかった。
引っ越しというのは、思った以上にやることが多い。
転居届、各種住所変更、ライフラインの解約手続き。それだけでも相当な手間なのに、仕事の繁忙期と重なったせいで、俺はそのあたりの作業をかなり雑にこなしてしまった。郵便局への転送届は出したし、銀行や保険の変更も済ませた。ただ、細かいところまで完全に漏れなくやれたかといえば、正直自信がない。
だから最初に連絡をもらったとき、俺は大して気にしなかった。
旧居の隣に住んでいた中年の男性、堂本さんという人から携帯に着信があったのは、引っ越しからちょうど三ヶ月ほど経った頃だった。俺が以前住んでいたのは、県境に近い静かな住宅街のアパートで、堂本さんはその隣の部屋にいた。特別に仲が良かったわけじゃないが、顔を合わせれば挨拶するくらいの関係で、引っ越しの日に「お世話になりました」と菓子折りを渡したのを覚えている。
「あのさ、ちょっと気になることがあって」と堂本さんは言った。「例の部屋の郵便受け、まだ君の名前のやつが入ってるんだよね」
俺は少し恥ずかしくなった。転送し損ねた郵便物があるんだなと思って、「すみません、取りに伺います」と答えた。
翌週末、俺は車で旧居のアパートまで行った。新居からは高速を使って一時間半ほどかかる。それほどの距離でもないので、ついでに近くで食事でもしようと軽い気持ちで出かけた。
アパートは二階建ての古い木造で、俺が住んでいた部屋は一階の突き当たりだった。既に次の入居者が決まっているとは聞いていたが、この日はまだ空室の様子で、カーテンも何もない窓がぽっかりと暗く見えた。郵便受けは共用の金属製のやつで、一階廊下の端にずらりと並んでいる。俺の旧部屋の受け口を開けると、確かに白い封筒が二通入っていた。
一通は通販会社のDM、もう一通は差出人のない白い封筒だった。
宛名は俺の名前。でも差出人欄は空白で、切手も貼られていない。ポスト投函ではなく、直接入れられたものだとわかった。
中を開けると、便箋が一枚入っていた。文章は短く、こう書いてあった。
「まだそこにいますか」
それだけだった。
俺は首をひねった。知り合いの悪ふざけか、あるいは俺が引っ越したことを知らない誰かが間違えたのか。いずれにせよ気味が悪いことは気味が悪かったが、差出人もわからないし、どうしようもないと思って、その手紙はアパートのゴミ集積所に捨てて帰った。
二通目が届いたのは、それから約一ヶ月後のことだ。
今度は堂本さんからショートメッセージが来た。「また入ってたよ、同じような封筒が」という内容だった。俺は少し迷ってから、「次に行ったとき取ります」と返信した。
三週間後に取りに行くと、封筒は確かにあった。前回と同じ白い封筒、差出人なし、切手なし。中の便箋には今度はこう書かれていた。
「まだ待っています」
俺は長い時間、その一文を見つめた。
待っている、という言葉が引っかかった。何かを待っているのか、俺を待っているのか。そもそもこれを書いた人間は、俺がここにもう住んでいないことを知っているのか、知らないのか。
堂本さんに「こういう手紙が入っていたんですが、見覚えありますか」と聞いてみたが、首を横に振るばかりだった。「誰かが入れてるのは見てないけど、朝起きたら入ってる感じ。夜中に入れてるのかな」と言って、堂本さんは少し顔をしかめた。「正直、ちょっと不気味でさ」
俺もそう思った。
管理会社に連絡して事情を説明したが、担当者の反応は薄かった。「郵便受けへの投函は外部からでも可能なので、こちらでは対応が難しい」という話だった。警察に相談するほどの話でもない、と俺は自分に言い聞かせた。ストーカーや嫌がらせにしては内容が穏やかすぎるし、実害があるわけでもない。ただただ、気持ち悪かった。
その後、俺はしばらく旧居のことを考えないようにしていた。
転機というか、奇妙な気づきがあったのは、半年ほどが経ったころのことだ。
俺は引っ越しの際にダンボール箱を大量に使って、その一部がまだ新居の押し入れの奥に積まれたままになっていた。その日は休日で時間があったので、ようやく整理しようと押し入れを開けた。一番奥の箱を引き出したとき、底の方に古い封筒が一通紛れ込んでいるのを見つけた。
旧居の郵便受けから転送された雑多な郵便物をまとめてダンボールに突っ込んでいたので、その中に混じっていたんだろうと思った。封筒を手に取ると、差出人の欄が気になった。
空白だった。
切手も貼られていない。
俺は封筒の中を確認した。便箋が一枚入っていた。文字を見た瞬間、体の奥が冷えた気がした。
「また会いに来てください」
筆跡は、これまでの二通と同じに見えた。
問題は、この封筒が引っ越し当初のダンボールに混じっていたということだった。俺が旧居を退去したのは三月末で、堂本さんから最初の連絡があったのは七月に入ってからだ。つまり、この封筒は俺が旧居にいた時代か、退去の直後に郵便受けに入れられたことになる。
そうすると、差出人は俺がまだ旧居にいた頃から、俺に何かを伝えようとしていたことになる。
俺はその晩、旧居での出来事を頭の中で整理しようとした。特別に変なことがあったかといえば、すぐには思い出せなかった。三年ほど住んだ古いアパートで、特に大きなトラブルもなかったし、近所付き合いも堂本さんくらいで、他の住人とはほぼ接点がなかった。
ただ、一つだけ思い当たることがあった。
退去の数ヶ月前のことだ。夜中に何度か、自分の部屋のドアをノックする音で目が覚めたことがあった。深夜の二時とか三時とか、そういう時間だ。最初は夢だと思った。二度目は気のせいかと思った。三度目は、さすがに眠れなくなってドアを開けてみたが、廊下には誰もいなかった。
ドアの外には誰もいなかったが、廊下の突き当たり、アパートの敷地と道路を隔てるブロック塀のあたりに、人の影のようなものが見えた気がした。街灯の光が届かない、暗い場所だった。じっと見ていると、その影は動いた。いや、動いたというより、消えた。
翌日、俺は自分が寝惚けていたのだと結論づけた。そのまま引っ越しの準備に追われて、そのことはすっかり忘れていた。
四通目の手紙が届いたと堂本さんから連絡があったのは、ダンボールの封筒を見つけてから二週間後のことだった。
俺は今度、取りに行くのを少し迷った。行けばまた、あの短い一文を読まなければならない。けれど行かないままにするのも、なんとなく怖かった。
結局、俺はまた車を走らせた。
旧居のアパートに着いたのは夕方の五時過ぎで、日はまだ沈んでいなかった。郵便受けを開けると、封筒があった。受け取って、その場で開けた。
便箋には、こう書かれていた。
「あなたが出ていっても、ここはずっとあなたの部屋だと思っています」
俺はしばらく動けなかった。
思います、という言葉だった。思っています、ではなく、思います。現在形で。今もそう思っている、ということだろうか。
封筒をコートのポケットに入れて、俺はアパートの廊下を出た。駐車場に向かって歩きながら、なんとなく後ろを振り返った。
一階の突き当たり、俺がかつて住んでいた部屋の窓が目に入った。空室のはずだから、カーテンはない。窓ガラスの向こうは、暗い。
でも、その暗さの中に、人の輪郭のようなものが見えた気がした。
窓の内側から、こちらを見ているような。
俺は目を細めてもう一度見たが、そこには何もなかった。光の加減か、夕暮れ時の視覚的な錯覚か。
それからまた二ヶ月ほどが経って、堂本さんからの連絡はぱたりと途絶えた。手紙が届かなくなったのか、堂本さんが連絡するのをやめたのかは、俺にはわからない。一度、確認のメッセージを送ったが、返信は来なかった。
旧居の管理会社に問い合わせたら、あの部屋には新しい入居者が決まったと言っていた。
その入居者が誰なのかは、教えてもらえなかった。
俺は今でも、あの便箋の一文を時々思い出す。ここはずっとあなたの部屋だと思っています、という言葉を。
誰がそう思っているのか、俺にはわからない。
ただ一つ気になるのは、新居に引っ越してきてから、俺は週に二、三度、夜中に目が覚めるようになったことだ。特に理由はない。ただ目が開いて、天井を見る。
そういうとき、玄関の方角から、ドアをノックするような音が聞こえる気がする。
気がするだけだ、とは思う。
でも、確かめに行く気には、なれないでいる。


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