宛名が変わっていた、あの部屋の話

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一人暮らしを始めた部屋に届く荷物の宛名が、いつからか自分の知らない名前に変わっていた。郵便物が示したのは、この部屋にまつわる、消えたはずの何かの痕跡だったのかもしれない。

去年の春、俺は仕事の都合で県境の町に引っ越した。

といっても大げさな場所ではない。山と川がそれなりに近くて、スーパーが一軒と、駅前にチェーンのコンビニが二軒あるような、ごく普通の地方の町だ。職場まで電車で二十分ほど。家賃も手ごろで、角部屋の二階、日当たりも悪くない。内見のときも特に変なところは感じなかったし、管理会社の担当者も愛想のいい中年の男性で、印象は悪くなかった。

ただひとつ、気になったことがあるとすれば、部屋の入口の郵便受けに、前の入居者のものと思われるチラシや封筒が何通か残っていたことだ。担当者は「引き渡し前に清掃業者が入っているはずなんですが、すみません」と言って、その場でまとめて抜いてくれた。宛名を見るともなしに見たら、「ミナミ」という名前が書いてあった。ひらがなだったか、カタカナだったか、今となってははっきり覚えていないけれど、ミナミ、という名前だったことだけは記憶している。

それが最初だった。

引越し後、しばらくは荷物の整理や転入手続きで忙しくて、あまり細かいことを気にしていなかった。仕事が落ち着いてきた五月の半ばごろ、ネットで注文していた日用品がいくつか届くようになって、俺はそこで初めて荷物の受け取りという行為を日常的にするようになった。

最初の数回は何ともなかった。宛名も自分の名前で、住所も合っている。ちゃんと自分宛てに届いている。それが普通のことだから、当たり前なんだけど。

変わったのは、六月に入ったあたりだったと思う。

その日は仕事が早く終わって、帰り道にコンビニに寄ってから部屋に戻った。玄関の郵便受けを開けると、封筒が一通入っていた。通販の領収書か何かだと思って取り出した瞬間、ちょっと手が止まった。宛名の名前が、自分のものじゃない。

「南 透」

みなみ とおる、と読むのだろうか。その住所は正しく俺の部屋番号だったけれど、名前が違う。最初は誤配だと思った。同じ棟に似たような名前の人がいて、配達員が間違えたんだろうと。封筒を持って一階に降り、各部屋の表札をざっと確認したけれど、「南」という名前はどこにも見当たらなかった。

念のため管理会社に電話して聞いてみると、担当者は少し間を置いてから「以前の入居者の可能性がありますね、住所変更の手続きが漏れていたのかもしれません」と言った。それもそうかと思って、封筒はそのまま郵便受けに戻しておいた。翌日には消えていたから、差出人のところに戻ったか、配達員が回収したのだろうと思っていた。

その件はそれで終わったはずだった。

ところが、七月に入ってまた届いた。今度は宅配便の不在票で、受取人の名前が「南 透」になっていた。俺は荷物を注文した覚えがなかったし、そもそもその名前は自分のものじゃない。配送業者のフリーダイヤルに電話して問い合わせると、「お客様のご注文履歴には該当の荷物がございません」と言われた。つまり、その荷物は俺宛ではなく、南透という人物宛てに、俺の住所に送られてきたということになる。

そこでもう一度、管理会社に電話した。今度は担当者ではなく、別の女性が出た。前の入居者について教えてもらえないか聞くと、「個人情報になりますのでお答えできません」とのことだった。それはそうだろう、と思いながら電話を切った。

ただ気になったので、その夜、「南透」という名前と、この町の名前を組み合わせて検索してみた。特に何も出てこなかった。よくある名前なのかもしれないし、そもそもSNSをやっていない人かもしれない。検索をやめて、その夜は寝た。

八月に入ってから、少し状況が変わってきた。

自分が注文した荷物の宛名が、おかしくなりはじめたのだ。

最初の一件は、俺自身がネットショップで注文した書籍だった。注文確認メールには、ちゃんと自分の名前と住所が記載されていた。なのに届いた荷物の伝票には、「南 透」と印字されていた。住所は正しく俺の部屋番号で、商品も確かに俺が注文したものだ。それなのに、名前だけが違う。

配送業者に確認すると、「こちらのシステム上では、ご依頼主様のお名前は南様となっております」と言われた。注文履歴を見ても俺の名前になっているのに、配送伝票には別の名前が出る。業者も首をひねって、「システムの不具合かもしれません、大変失礼しました」と謝罪してくれたけれど、それ以上の説明はなかった。

次の一件は、別のショッピングサイトだった。今度も、注文確認の段階では自分の名前が表示されていた。届いた伝票には「南 透」。その次も、また「南 透」。

おかしいと思って、試しに荷物を受け取る前に、インターホン越しに配達員に「宛名の名前を教えてもらえますか」と聞いたことがある。配達員はごく普通のトーンで「南様ですね」と答えた。それを聞いたとき、なんとも言えない寒気がした。外は真夏だったのに。

部屋の中に、南透という人間がいるような感覚が、そのときはじめてした。

九月になって、俺はこの部屋に越してきてから溜めていた書類を整理していた。引っ越し当初にもらった書類の束の中に、管理会社から渡された部屋の設備説明書があって、その裏に何かが書いてあるのに気づいた。

鉛筆で、薄く、でも丁寧な字で書かれていた。

「この部屋に届く荷物は、受け取らないほうがいい」

それだけ書いてあった。日付もなく、署名もない。誰が書いたのかもわからない。管理会社の書類に、なぜそんなことが書いてあるのか。もし前の入居者が書いたとしたら、いつ、何のために書いたのか。

俺はその紙をしばらく見ていた。

考えてみると、南透という名前の郵便物が届きはじめたのは、俺がこの部屋に越してきてからずっと、ほぼ途切れることなく続いている。前の入居者の転居漏れにしては、件数が多すぎる。しかも俺自身が注文した荷物の宛名まで変わっているとなると、説明がつかない。

知り合いに、霊感があるとか、そういう話をよくする女性がいる。その人に話したら、「前に住んでいた人がまだそこにいると思っているんじゃないかな」とさらっと言った。「荷物が届くたびに、自分の名前で届いてくると思っているんだよ、たぶん」。

冗談のような口ぶりだったけれど、冗談として笑えなかった。

十月、ある朝、玄関の郵便受けを開けたら、封筒が一通入っていた。宛名は「南 透」。差出人の住所は、この町の、近所の番地だった。歩いていけないこともない距離だ。消印の日付を見ると、つい三日前になっている。

差出人の名前は「南」とだけ書いてあった。名字だけで、名前がない。

俺はその封筒を、どうすればいいかわからなくて、一週間ほど玄関に置いておいた。開けるわけにもいかないし、捨てるのも何か気が引けた。管理会社に持っていくことも考えたけれど、なんとなく躊躇って、そのままにしていた。

ある夜、仕事から帰ってきたら、封筒が消えていた。

鍵は変えていないし、合鍵は管理会社にしかない。窓も全部閉めて施錠して出ていた。なのに、玄関に置いておいたはずの封筒が、なくなっている。

泥棒が入った形跡はなかった。部屋の中のものも、何一つなくなっていない。ただあの封筒だけが消えていた。

俺は今もこの部屋に住んでいる。

先週、また荷物が届いた。自分で注文したものだ。伝票の宛名を確認した。自分の名前になっていた。南透ではなく、ちゃんと俺の名前で届いた。

久しぶりに自分の名前を見た気がして、少しほっとした。

でも、ほっとしながらも、同時にこう思った。

なぜ、突然、元に戻ったのか。

あの封筒を受け取って、南透という存在が満足したのか。それとも別の何かが、この部屋の中で変わったのか。俺にはわからない。今もわからないまま、毎日ここで暮らしている。

郵便受けを開けるたびに、宛名を確認する癖だけが、残った。

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