隣の部屋の洗濯物

引っ越して間もないアパートで、誰も住んでいないはずの隣室から生活の痕跡が消えない。確かめようとするたびに、現実がわずかにずれていく。

その部屋に越してきたのは、三月の終わりのことだった。

二十代の後半に差し掛かった頃、私は仕事の都合で、生まれ育った街からずいぶん離れた小さな町へ一人で引っ越すことになった。県と県の境に挟まれたような、地図で見ると名前を探すのも少し手間取るような場所だ。商店街はシャッターが目立ち、夜になると人通りがほとんどなくなる。そういう静かな町だった。

住んだのは築二十年ほどの2階建てアパートで、私の部屋は二階の右端、202号室。その左隣、201号室は、内見のときから空室だと不動産屋に聞いていた。「前の入居者が去年の秋に退去されてから、ずっと空いたままで」と担当の男性は少し申し訳なさそうに言っていた。隣が空室なら静かでいいと、そのときは単純に喜んでいた。

最初に気になったのは、引っ越して一週間も経たない頃のことだ。

朝、仕事に出かけようとして外廊下に出たとき、201号室のドア前に洗濯物が干してあることに気がついた。アパートの廊下は外に面していて、各部屋の前の手すりに洗濯ばさみで物を干せるようになっている。私も引っ越した翌日からそうやってタオルを干していた。

201号室の手すりにかかっていたのは、白いTシャツが一枚と、紺色のソックスが二足分。風に揺れていた。

ああ、誰か入居したんだな、と最初は普通に思った。不動産屋がわざわざ知らせてくれるわけでもないし、タイミングが重なっただけだろうと。挨拶に来ないのも今どきは珍しくない。私だって管理人室に挨拶を持っていくだけで、隣近所への挨拶はしていなかった。

ただ、少し気になることがあった。

その日の夜、帰ってきたとき、朝と同じ洗濯物がまだそのままかかっていた。夕方には取り込むだろうと思っていたのに、Tシャツもソックスも朝のままの位置にある。夜でも干しっぱなしにする人もいるよなと思いつつ、特に深く考えなかった。

でも、翌朝もあった。

その次の朝も、同じ白いTシャツと紺色のソックスが、同じ向きに干されていた。

四日目の朝、私は少し意識して見た。Tシャツの裾に、薄い染みのようなものがある。昨日も、一昨日も、同じ染みが同じ位置にあった気がする。もしかして、毎日同じものを干しているのだろうか。それとも、ずっと同じものが干されたままなのだろうか。

職場に着いてから同僚に何気なく話した。「隣の部屋、空室だって聞いてたけど誰か入ったみたいで」と言うと、「最近のアパートって管理会社も連絡くれないよね」と笑って終わった。それだけの話だと思っていた。

転機になったのは、その週の土曜日だ。

天気がよかったので、私は昼頃から自分の洗濯をして、廊下に出た。手すりに洗濯物を干しながら、なんとなく201号室の洗濯物を見た。相変わらずTシャツとソックスがかかっている。一週間、ほぼ同じものが干されたままだ。

ふと、ドアの前に目をやった。

郵便受けに何かが詰まっていた。チラシか、広告の類いだろう。だが、その量が多い。折り込まれたビニール袋の端が飛び出していて、その下にもう何枚か紙が見えた。それを見て、初めて嫌な感覚が来た。

もし本当に入居者がいるなら、毎日帰宅するたびに郵便受けを確認するはずだ。一週間分のチラシが溜まっているということは、誰も取り出していないということになる。

管理人室は一階にある。その日の夕方、私は思い切って声をかけに行った。管理人のおばあさんは、六十代後半くらいで、物静かだが親切な人だった。

「201号室なんですが、最近どなたか入居されましたか」

おばあさんは少し首を傾けて、「いいえ、まだ空室ですよ」と言った。「ご不便おかけしてますね、音がうるさかったりしましたか」と続けたので、私は「洗濯物が干してあったので、てっきり誰か入ったのかと思って」と答えた。

おばあさんの表情が、ほんの少し変わった。

「洗濯物……」と、確認するように繰り返して、それから「管理の行き届かなくてすみません、確認します」と言った。

翌朝、洗濯物は消えていた。

それで終わればよかった。

二週間ほどは何もなかった。仕事が忙しくなってきた時期で、帰りが遅くなることも多く、隣のことは頭から離れていた。

変化に気づいたのは、四月の下旬だったと思う。

深夜に帰宅して、廊下を歩いていたとき、201号室のドアのあたりから微かに音がした。音というより、気配と言った方が正確かもしれない。壁越しに人がいる、あの、空気の圧力みたいなもの。住んでいたマンションや実家で何度も感じてきた、「隣に人がいる」という感覚だ。

立ち止まって、耳を澄ました。

静かだった。何も聞こえない。気のせいだと思って部屋に入った。

その夜、眠れなかった。壁のすぐ向こう、201号室に面した側の壁から、聞こえるか聞こえないかのギリギリのところで、何かが動いているような気がしてならなかった。歩く音、というほどはっきりしたものではない。でも、確かに何かがそこにある、という感じ。

翌朝、廊下に出た。

手すりに、白いTシャツが一枚かかっていた。

私は、しばらく動けなかった。風に揺れるその裾に、薄い染みが見えた。

そこから先は、少し記憶が飛び飛びになる。仕事中もぼんやりしていたらしく、同僚に「顔色悪いよ」と言われた。その日の帰り道、私はスマホで管理会社の番号を調べて、翌朝に電話した。事情を説明すると、担当者は「確認します」と言って、折り返しがあったのはその日の夕方だった。

「201号室は空室です。現在ご内覧の予約も入っていません。ご心配であれば鍵をお持ちして確認することもできますが」

確認してほしいと頼んだ。翌日の昼、管理会社の若い男性が来て、201号室のドアを開けた。私も立ち会わせてもらった。

部屋の中は、がらんとしていた。畳の部屋が一間と、小さなキッチン。においは少しこもった感じがしたが、誰かが生活しているような様子はどこにもなかった。男性は各部屋を確認して、「異常はありませんね」と言った。窓も施錠されていた。

私はぐるりと部屋を見回して、「そうですか」と答えた。

帰り際、洗濯物のことを男性に伝えた。また干されていたら連絡してほしいと頼んで、その日は終わった。

それからしばらく、洗濯物は出なかった。私も少しずつ気にしなくなってきた。五月に入って、仕事にも慣れ始めて、休日には町の中を少し歩いたりした。静かな場所だったが、慣れると悪くはなかった。

ただ、一つだけ、ずっと引っかかっていることがある。

管理会社の男性が部屋を確認したとき、畳の上を見ていた私は、あるものに気づいた。洗濯ばさみが一個、隅に落ちていた。赤いプラスチックの、よくある洗濯ばさみ。部屋の中に洗濯物を干すロープのようなものはなく、その洗濯ばさみはただそこに転がっていた。

男性はそれを拾い上げて、「ゴミですかね」と言って、ポケットに入れた。

私はそれを見ながら、何も言えなかった。

その洗濯ばさみが、私のものでも、管理会社のものでもないとすれば、誰のものなのか。空室の、誰も出入りしていないはずの部屋に、どうしてそれがあったのか。

六月に入った今も、私はあのアパートに住んでいる。

201号室は今もまだ空室のはずだ。洗濯物は、あれ以来一度も現れていない。壁の向こうの気配も、感じなくなった。

ただ、今朝、廊下に出たとき、手すりをふと見た。

自分の洗濯物の隣に、見覚えのない靴下が一足、挟まっていた。

赤い洗濯ばさみで。

私のものでないことは確かだった。いつそこに来たのか、誰が干したのか、今もわからない。部屋に戻って、仕事の準備をして、もう一度廊下に出たとき、靴下はなくなっていた。洗濯ばさみも、一緒に。

それだけだ。それ以上のことは、何も起きていない。

ただ、今日から少しだけ、外に洗濯物を干すのをやめようかと思っている。

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