一人暮らしの部屋の固定電話に、身に覚えのないメッセージが残り始めた。再生するたびに内容が変わり、やがて「録音された声」の正体に気づいたとき、もう手遅れだった。
固定電話を置いているのは、ちょっとした意地みたいなものだった。
スマートフォン一台で全部完結する時代に、わざわざ実家から持ち出してきた古い電話機を玄関脇に置いていた。誰かに見せたくて置いていたわけじゃない。ただ、電話機の向こうに声があって、受話器を耳に当てて話す、そういう行為に妙な落ち着きを感じていたんだと思う。
引っ越してきたのは、県北の山沿いにある小さな町だった。仕事の都合で急に決まった転勤で、職場の同僚も知り合いもほとんどいない土地だった。1DKのアパート、築十五年、二階の端の部屋。可もなく不可もない、ごく普通の住まいだった。
留守番電話の機能は使ったことがほとんどなかった。実家の母が「何かあったとき用に」と設定してくれたもので、自分では設定の詳細もよく把握していなかった。応答メッセージも母が吹き込んだままにしていた。息子の名前を名乗る母の声が出て、「ただいま外出しております」と続く、少し気恥ずかしいやつだ。
最初にメッセージが残っていることに気づいたのは、越してきて三ヶ月ほど経った秋口のことだった。
その日、仕事から帰ると電話機の点滅ランプが赤く光っていた。めずらしいな、と思いながら再生ボタンを押すと、くぐもったノイズのあとに声が流れた。
「あ、もしもし。先週の件、大丈夫でしたか。また連絡してください」
それだけだった。男の声だった。年配、というほどでもないが、落ち着いた中年の声だった。「先週の件」が何なのか、まったく心当たりがない。番号を間違えたのだろうと思って、メッセージを消した。それだけのことだった。
次に気づいたのは、それから四日後だった。
また点滅している。また再生した。
「お疲れ様です。こちらからも確認しておきますので、書類の方は来週でも構いません」
別の声だった。今度は女性の声で、やや事務的な話し方だった。でも、やはり「書類」も「来週」も、何のことなのかさっぱりわからない。また番号間違いか、と思って消した。
ただ、このあたりから少し引っかかり始めた。固定電話の番号を知っている人間が、そもそもほとんどいない。実家の母と、職場に届け出た緊急連絡先としてだけだ。あとは、引っ越し直後に念のため届け出た各種手続き関連くらい。見知らぬ人間から二度も間違い電話がかかってくる確率というのは、それほど高くないはずだった。
三度目は、それからちょうど一週間後だった。
「ちゃんと聞こえてますか。返事がないので心配しています」
今度の声は、最初の男とも、二度目の女性とも違った。声の年齢も性別も判別しにくい、少しこもったような声だった。内容がどういう文脈なのかもわからない。ただ、「返事がない」という言葉だけが、妙に耳に残った。
誰に向けた言葉なのだろう、と思ったのだ。
それを消したあと、ふと思いついて、電話機の設定を確認してみた。着信履歴を見ると、三つともまったく同じ番号からかかってきていた。表示は「非通知」ではなく、ちゃんと数字が出ていた。見慣れない市外局番だった。
スマートフォンで検索しても、その番号に紐づく情報は何も出てこなかった。企業の代表番号でも、個人の登録番号でもない。存在するが、何もわからない番号、というのが正確な表現だと思う。
かけ直そうかどうか、少し迷った。でも、その夜は結局かけずに寝た。なんとなく、かけたくない気持ちが先に立った。
そのまま二週間ほど、メッセージは残らなかった。僕もだんだん忘れかけていた。
異変に気づいたのは、何気なく過去のメッセージを確認しようとしたときだった。一度消したはずのメッセージが、また残っていたのだ。
最初の男の声のやつ。「先週の件、大丈夫でしたか」というあれだ。確かに消した。再生して、消去ボタンを押して、ランプが消えたのを確認した。それなのに、また録音データとして残っている。
おかしいと思いながら、もう一度再生した。
内容が、変わっていた。
「先週の件、大丈夫でしたか」というのは同じだった。でも、その後に続く言葉が増えていた。
「もう気づいているんでしょう。だから返事ができないんですよね」
聞き間違いかと思って、三回繰り返した。三回とも、同じ言葉が続いた。最初に聞いたときには絶対になかった言葉だ。録音が上書きされたとか、そういう機能があるとは思えない。そもそも電話機の仕組みとして、すでに消去したデータが復元されること自体、あり得ない。
気持ち悪くなって、電話機のコンセントを抜いた。
二日間、そのままにしていた。
三日目の朝、出勤前にコンセントをまた入れた。理由はうまく説明できないけれど、抜いたままにしておくことの方が怖くなってきたからだ。
電源が入ると同時に、ランプが点滅した。
録音されていた。電源が入った瞬間から録音されるはずがない。コンセントを抜いている間は電源もないし、着信を受ける機能もない。それなのに、メッセージが残っていた。
再生した。さっきも書いた通り、出勤前だった。急いでいたし、頭の中が少しパニックになっていたと思う。
声は、また別のものだった。今度は子どもの声に近かった。ただ、喋り方が子どもらしくなかった。
「そこにいるうちは、ちゃんと聞いておいた方がいいよ」
それだけだった。
仕事中、ずっとそのことが頭から離れなかった。昼休みに同僚に話してみようかとも思ったけれど、やめた。言葉にしてみると、電話機が誤動作しているだけの話に聞こえる。自分でもそう思いたかった。
帰り道に、電気屋に寄って電話機の動作について聞いてみた。電源なしで録音される仕組みは基本的にないこと、過去に消去したメッセージが復元されることもないこと、担当の店員はそう言った。「機器の故障か、ウイルスか、まあ固定電話にそれはないですが」と笑っていた。
部屋に帰ると、またランプが点滅していた。
今度はすぐには再生しなかった。夕食を作って、食べて、風呂に入って、それでもランプは点滅し続けていた。消したいのに、手が伸びない。再生するたびに内容が変わるのであれば、次に聞こえてくる言葉が怖かった。
深夜になって、観念して再生した。
流れてきたのは、僕自身の声だった。
「あ、もしもし。先週の件、大丈夫でしたか。また連絡してください」
一番最初に聞いた、あの言葉だった。でも、声が違う。最初に聞いたときは中年男性の落ち着いた声だと思っていた。今聞くと、それが自分の声に聞こえた。録音で聞く自分の声は、自分の認識よりも低くて、少し他人みたいに聞こえる。あれが本当に僕の声だったのかどうか、もう自信が持てない。
そこで、あることが頭をよぎった。
一番最初のメッセージから、声が毎回変わっていた。最初の男、次の女性、次の聞き取りにくい声、子どもの声、そして今の声。全部で五つ。そして一番最初の声が、もしかして僕自身の声だったとしたら。
では残りの声は、誰のものだったのか。
かけてきた番号は、ずっと同じだった。その番号を、試しにかけ直してみようとスマートフォンで発信した。長い呼び出し音のあと、繋がった。繋がった先から流れてきたのは、留守番電話の応答メッセージだった。
母が吹き込んだ、僕の名前を名乗る声が流れた。
かけ直した番号が、僕自身のアパートの固定電話の番号だった。
留守番電話に録音されていたのは、全部、この部屋にかかってきた着信音に反応して、自動的に録音されていた周囲の音声だったのだろうか。それとも。
電話機の前に立って、しばらく動けなかった。
ランプはもう点滅していない。メッセージも、今は残っていない。あれから二ヶ月が経った。固定電話は今も玄関脇に置いてある。コンセントは入れたままにしている。ランプが点滅しても、もう再生はしていない。
ただ、一つだけずっと引っかかっていることがある。
子どもの声で流れてきた、あの言葉。
「そこにいるうちは、ちゃんと聞いておいた方がいいよ」
「そこにいるうちは」というのは、どういう意味だったのだろう。まだ「そこにいる」自分は、聞いておかなければならない何かを、聞き逃したままでいるのだろうか。
それとも、もうとっくに聞いてしまっているのだろうか。
わからないまま、今日もランプは光っていない。


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