一人暮らしを始めた部屋に、毎週日曜日、宛名のない荷物が届き続けた。開けるたびに、俺の記憶から何かが欠けていくような気がした。
その部屋に引っ越してきたのは、二十四歳の秋のことだった。
仕事の都合で地元を離れ、県境沿いの小さな町に越してきた俺は、駅から十分ほど歩いたところにある古い二階建てアパートの一階、角部屋を借りた。築三十年近い建物で、窓枠の塗装が剥げていたり、押し入れの戸がわずかにゆがんでいたりしたが、家賃が安かったし、職場まで自転車で十五分という立地が気に入った。荷物の少ない俺には十分な広さだった。
引っ越した翌週の日曜日、玄関のチャイムが鳴った。
宅配業者だった。細長いダンボール箱を差し出されて、俺は少し戸惑った。まだ引っ越したばかりで、この住所を知っている人間は職場と家族くらいしかいない。荷物を注文した覚えもなかった。
「あの、これ、俺宛ですか」
「えっと……はい、この部屋番号で合ってます」
受け取りのサインをして、箱を室内に持ち込んだ。宛名の欄には確かに部屋番号と「住人様」とだけ書いてあった。差出人の欄は空白だった。
開けると、中には白い食器が入っていた。小皿が四枚、丁寧に緩衝材で包まれて並んでいた。メモの類いは一切入っていない。
前の住人への誤配だろうと思った。管理会社に連絡しようとしたが、日曜日で繋がらず、そのまま押し入れの隅に箱ごと置いておいた。
翌日、管理会社に電話すると「前の入居者の方のお名前はお伝えできないんですが、もし誤配なら業者に問い合わせてもらえますか」という返答だった。伝票に書いてあった電話番号に掛けてみると、「お客様からの注文ではないため、詳細はお答えできません」と言われてそれ以上話が進まなかった。
面倒になった俺は、そのまま放置することにした。
二週間後の日曜日、また荷物が届いた。
今度は平たい箱で、開けると木製の小さな額縁が入っていた。何も飾られていない、ただの空の額縁だった。差出人はまた空白。宛名は「住人様」。
さすがに変だと思い、管理会社にもう一度連絡したが、「弊社では荷物の管理はしておりませんので」と言われるだけだった。アパートのほかの住人に聞こうかとも思ったが、引っ越してきて間もない俺は誰とも顔見知りではなく、二階の住人とも廊下ですれ違ったことすらなかった。
その週から、俺は少し妙な感覚を覚えるようになった。
うまく言葉にならないのだが、何かを思い出せない、という感じだった。記憶が飛んでいるわけではない。ただ、たとえば「昔、親父とよく行っていた釣り場の名前」とか、「高校のときに仲の良かった友人の苗字」とか、そういった細かいことが、引き出しを開けたら空っぽだったような感触でするりと消えている。
気にしすぎかと思って、最初はやり過ごしていた。
でも次の日曜日にまた荷物が届いたとき、俺は段ボールを開ける手が少し震えていることに気づいた。今度の箱の中には、古い目覚まし時計が入っていた。電池は入っておらず、針は止まったまま。どこかで見たことがあるような気がした。でも思い出せなかった。
その夜、実家に電話した。母親が出て、他愛ない話をしばらくした後、俺はふと「なあ、俺が小さい頃、部屋に置いてた時計ってどんなやつだったっけ」と聞いた。
「時計? さあ、覚えてないわよ。何かあったの」
「ううん、別に」
通話を切ってから、俺は気づいた。子どもの頃の自分の部屋の様子が、ぼんやりとしか思い浮かばない。壁の色は覚えている。窓の位置も覚えている。でも、棚に何が飾ってあったか、床に何が敷いてあったか、そういった細部が、霧の中に溶けるように消えていた。
四回目の日曜日、荷物を受け取ったとき、俺は開ける前にしばらく玄関に座り込んでいた。
開けたら、また何かを失う気がした。
根拠はない。ただそんな気がした。
それでも結局開けた。中に入っていたのは、折りたたまれた子ども用の薄いタオルケットだった。色は水色で、端がほつれていた。見た瞬間、喉の奥が詰まるような感覚があった。
懐かしい、という気持ちより先に、「これを知っている」という確信があった。でも何なのかが分からない。どこで使っていたものなのか。誰のものだったのか。記憶の輪郭だけがあって、中身がない。
俺はその週、押し入れに積み上げた四つの箱をまとめて引っ張り出した。小皿、額縁、時計、タオルケット。並べて眺めてみたが、これらが何かひとつのテーマでつながっているようには見えなかった。強いて言えば、どれも古びた生活用品だ。
近所に住んでいるらしい年配の女性が廊下で荷物の搬入を手伝ってくれたことがあって、それ以来たまに挨拶をする仲だった。ある日、思い切ってその人に話しかけた。
「この部屋、前に住んでた人って、どんな人か知ってますか」
老女は少し間を置いてから、「ああ、あそこね」と言った。
「一人の男の人が住んでたけど、ある日突然いなくなったのよ。荷物もそのままにして。管理会社の人が片づけに来てたわ。もう何年も前のことだけど」
「荷物をそのままに、ですか」
「そう。家具まで全部置いて。引っ越したんじゃなくて、消えたって感じだったわね」
それだけ言って、老女は自分の部屋に入っていった。
俺はしばらく廊下に立ったまま動けなかった。
その夜から、俺はひとつ試みをはじめた。失われつつあると感じる記憶を、思い出せる限りノートに書き留めるようにした。幼少期のこと、学生時代のこと、友人の名前、家族との思い出。書いているうちに、どうにか形になるものもあったし、書こうとしても文字にならないものもあった。
五回目の日曜日、チャイムが鳴った。
箱は今まででいちばん小さかった。開けると、中には写真が一枚入っていた。
古い、色の褪せた写真だった。写っているのは知らない男だった。三十代くらいで、どこかの海辺らしき場所に立って、カメラに向かって笑っている。
俺はその写真を長いあいだ眺めた。
知らない人間のはずだった。でも、ものすごく懐かしかった。父親でも、友人でも、職場の人間でも、そんな感じではなかった。もっと近くて、もっと曖昧な、うまく分類できないところにいる誰かだった。
写真の裏を見た。鉛筆で薄く、何かが書いてあった。
「おまえのことは、ちゃんと持っていく」
俺は翌週、その部屋を引き払った。
荷物を全部まとめて、受け取った箱も全部処分して、管理会社に退去の連絡をして、何も告げずに出た。
引っ越し先のアパートで新しい生活をはじめて、半年が経つ。
荷物はもう届かない。チャイムが日曜に鳴っても、それは普通の宅配だ。
ただ、あの部屋にいた四ヶ月のあいだに失ったものが、戻ってきた気はしない。ノートに書き留めておいたはずの記憶も、読み返すと何かひとつ、知らない場所で抜け落ちているような気がする。
あの写真の男が誰だったのか、今でも分からない。
いや、正確に言うと、何か知っていた気がするのに、もう辿り着けない。
引っ越した後、一度だけあのアパートの前を通りかかった。俺が住んでいた角部屋の電灯は消えていて、窓には「空室」の貼り紙がしてあった。
次の日曜日、誰かがあの部屋に荷物を受け取りに来るのか。それとも、もう届かないのか。
どちらでも良かった。ただ、あの「住人様」という宛名の字が、ひどく几帳面で丁寧な筆跡だったことだけを、なぜか今でも鮮明に覚えている。

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