夜の11時17分、必ず鳴る固定電話。出るたびに聞こえるのは無音だけのはずだった——はずだったのに、ある夜から、かすかに何かが変わり始めた。
あの電話のことを、誰かに話したのは今回が初めてだ。
話したところで信じてもらえるか分からないし、正直なところ、自分でも今でも整理がついていない。ただ、あれがなんだったのかを誰かに知っておいてほしいという気持ちが、ずっと胸の奥にあって。だからこうして、文章に残すことにした。
二年ほど前のことになる。私は仕事の都合で、県境の町にある古いアパートに引っ越した。築三十年以上の木造で、廊下を歩くたびに床が鳴り、夏は蒸し暑く、冬は隙間風が入ってくる。条件だけ見れば決して良くはなかったけれど、家賃が破格に安かった。都市部から離れていることもあって、静かで、最初はそれが気に入っていた。
部屋に残っていたものが、一つだけあった。
固定電話だ。
古い型の、ベージュがかった白いプッシュホン。前の入居者が置いていったらしく、押し入れの中に布がかけてしまってあった。不動産屋の担当者に「これはどうしますか」と聞いたら、「あ、すみません、前の方の忘れ物です。そのまま使っていただいて構いません。回線は生きてます」と言っていた。
特に深く考えもせず、そのまま部屋の隅に置いた。自分のスマートフォンがあるから、使う機会はほとんどないだろうと思っていた。
最初に電話が鳴ったのは、引っ越しから一週間ほど経った夜のことだった。
寝る前にスマホをいじっていたら、突然、あの古い電話がけたたましく鳴り出した。時刻を見ると、11時17分だった。こんな時間に誰だろうと思いながら受話器を取ると、何も聞こえなかった。息遣いも、環境音も、何もない。完全な無音ではなくて、かすかにホワイトノイズのようなものが混じっているような気がしたが、それだけだった。
「もしもし?」と言っても、応答はない。しばらく待って、切った。
間違い電話だろうと思って、その日は気にしなかった。
次の夜も、同じ時刻に鳴った。11時17分。
受話器を取ると、また無音だった。今度は少し長く待ってみたが、やはり何もない。変だとは思ったが、それ以上のことは考えなかった。
三日目も、鳴った。
さすがに気になって、4日目は電話が鳴る前から時計を見ていた。11時15分、16分、そして17分ちょうどになった瞬間、ベルが鳴り始めた。
私は受話器を取らなかった。ただじっと、鳴り続けるのを眺めていた。十回鳴って、止まった。
翌朝、不動産屋に電話して、「固定電話に夜中に無言電話がかかってくる」と伝えた。担当者は申し訳なさそうに「番号を変えますか?」と言ったが、私はなんとなく「いや、大丈夫です」と答えてしまった。なぜそうしたのか、自分でもよく分からない。
その頃から、電話が鳴る時間がほんの少しだけ気になるようになった。
毎晩、必ず11時17分に鳴る。一秒のずれもなく。スマホのデジタル時計で何度か確認したから、間違いない。週に一度二度ではなく、毎晩、欠かさず。雨の夜も、風の強い夜も、私が少し遅くまで仕事をしていた夜も。
受話器を取ることも、取らないこともあった。取っても無音で、取らなければ十回鳴って止まる。それだけだ。
奇妙だとは思っていた。でも「怖い」という感覚はなかった。むしろ、どこか不思議な安心感があったといえば変に聞こえるだろうか。毎晩11時17分に電話が鳴ることが、いつの間にか日常の一部になっていた。鳴れば「ああ、今日も来たか」と思って、それで終わり。
変化が起きたのは、引っ越しから二ヶ月ほど経った夜のことだった。
その夜もいつも通り、11時17分ちょうどに電話が鳴った。私はソファに座ってテレビを消したところで、なんとなく受話器を取った。
無音のはずだった。
でも、違った。
かすかに、何かが聞こえた。
音、というより気配に近いものだった。人が息を吸うような、あるいは何かが動くような、ごく小さな空気の揺れ。それが一瞬だけあって、またすぐに無音に戻った。
「もしもし?」
声に出してみたが、何も答えない。でも、それまでの無音とは何かが違う気がした。うまく言えないけれど、向こうに何かがいる感じ。気配、と呼ぶのが一番近いかもしれない。
その夜は長いこと眠れなかった。
翌日から、私は受話器を取るときに息を詰めるようになった。毎晩、同じ時刻に鳴る。受話器を取る。最初の数秒、耳を澄ます。その繰り返し。気配が聞こえる夜もあれば、やはり完全な無音の夜もあった。規則性はよく分からなかった。
二週間ほどそれが続いたある夜、初めて「声」を聞いた。
声、と言っても、はっきりとした言葉ではない。遠く、ひどく遠くから聞こえてくるような、くぐもった音の塊。人の声に似ているけれど、何を言っているのかはまったく聞き取れない。男性か女性かも、分からない。ただ、それが「声」であるということだけは確かだった。
電話口に向かって「聞こえていますか」と言ったら、声が止まった。
止まったあと、また気配だけが残った。そして十秒ほどして、電話が切れた。
こちらから切ったわけではない。向こうから切れた。
その夜から、私は毎晩録音を始めた。スマートフォンを固定電話の受話器の横に置いて、ボイスメモを立ち上げて、受話器を取る。録音した音声を翌朝再生して確認する、という作業を繰り返した。
最初の数日は何も録れなかった。やはり無音か、かすかなホワイトノイズだけ。でも十日目の夜、録音に明確な音が残った。
その音を聞いたとき、私は再生を止めて、しばらく動けなかった。
声だった。
遠くから聞こえる、くぐもった声。聞き取れないと思っていたのに、録音して再生して、ボリュームを上げて聞くと——一言だけ、はっきり分かる部分があった。
「まだ、いる?」
そう聞こえた。
何度再生しても、そう聞こえた。
その日は会社を休んだ。外に出る気になれなくて、一日中部屋にこもっていた。電話のことを誰かに相談しようとスマホを握ったけれど、何をどう説明すればいいのかが分からなくて、結局誰にも連絡しなかった。
不動産屋に電話して、前の入居者について聞いてみた。担当者はしばらく沈黙してから、「個人情報になるので詳しくはお伝えできませんが……長く住んでいた方でした」とだけ言った。「長く、というのはどのくらいですか」と聞くと、「十年以上は住んでいたと思います」という答えだった。それ以上は教えてもらえなかった。
その夜も、電話は鳴った。11時17分、一秒のずれもなく。
私は受話器を取らなかった。録音だけした。
翌朝、再生すると——十回のベルの音のあと、無音が続く。受話器を取っていないから当然だ。でも、ベルが止んだあと、三秒ほどの間があって、かすかに何かが聞こえた。
電話口ではなく、どこか別のところから聞こえてくるような音だった。
部屋の中から、聞こえるような音だった。
私はすぐにその録音を消した。バックアップも残さなかった。正確に何が聞こえたのかを、ここに書くことができない。書いてしまったら、もう取り消せない気がして。
その翌日、私は引っ越しの手続きを始めた。
県境の町を離れて、もとの都市部に近い場所へ戻った。新しい部屋にはもちろん固定電話は置いていない。前の部屋に残してきた。あの古いプッシュホンを、押し入れにしまって。
引っ越してから一ヶ月が経つ。
スマートフォンには、あの部屋の番号を登録していない。だから、向こうからかかってきても分からない。
でも、ときどき考えることがある。
毎晩11時17分、あの電話は今も鳴っているのだろうか。誰もいない部屋で、十回ベルを鳴らして、止まる。それを今も繰り返しているのだろうか。
あるいは——受話器を取る人間がいなくなって、向こうはどうしているのだろう。
「まだ、いる?」
あれは私に向けた言葉だったのか、それとも別の誰かに向けた言葉だったのか。
今でも、答えは分からない。
ただ、夜の11時17分になると、私はいつも壁の時計を見てしまう。そして、何もない静かな部屋の中で、電話が鳴らないことを確認する。
それが今の私の、毎晩の習慣になってしまっている。

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